第10話 招かれざる本物

ゴオオオオオ……ッ!


地鳴りのような低い唸り声が、病院全体から響き渡る。ポルターガイストとは明らかに次元の違う「何か」の胎動。建物の基礎が軋むような、重く、腹の底に響く振動。


「な、なに……この音……!?」


『地震?』

『唸り声?』

『やばい、マジでやばいって!』


視聴者の注目、いろはの恐怖、カレンの恐怖とAR装置、そしてこの廃病院に長年蓄積された怨念……それら全てが混ざり合い、最悪の触媒となって、眠っていたモノを完全に呼び覚ましてしまったのだ。


それは、特定の姿を持たない。怨霊というよりは、病院という空間そのものが捻じれ、悪意を持って実体化したような、もっと根源的で、理解不能な恐怖の集合体。


フッ……と、院内の空気が一変した。


「さ、寒い……!なにこれ、急に……」


急激に気温が低下し、吐く息が白くなる。まるで巨大な冷凍庫だ。


「マスター、空間歪曲率が危険域に、精神汚染の兆候も……意識をしっかり持って!」


MOCAの声が遠くに聞こえる。壁や床からは、コールタールのように黒く粘つく液体がじわじわと染み出し、強烈な腐臭を放ち始める。空間そのものがぐにゃりと歪んで見えるような、強烈な目眩めまいに襲われ、立っているのもやっとだ。


『おかしいおかしいおかしい』

『くっさそう……』

『マジで逃げてえええええ』

『大丈夫か!?』



カレンの配信画面。最新鋭のはずのAR表示は完全にバグり、意味不明な幾何学模様やノイズが明滅している。


唯一の頼りであったパートナードローンも徐々に浮力を失い、それと共にカレンの配信画面は暗闇に沈んでいく。かろうじて映るカレンの顔は恐怖に引きつり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。


「スタッフ!演出じゃないわよね!?答えなさい!誰か……誰か助けて……!」


インカムに叫ぶカレン。しかし、返ってきたのは、ザー……というノイズと、遠くで響く短い、人間のものではないような甲高い悲鳴だけだった。


カレンの顔から、完全に血の気が引く。


「嘘……でしょ……?みんな……どこ……?」


その瞬間。


バツンッ!!


院内全ての照明が、完全に消えた。非常灯すら点かない、完全な暗闇。視界ゼロ。



しん……と静まり返った闇の中、先ほどまでの騒がしさが嘘のようだ。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。ドクン、ドクン、と。


コメント欄も静まり返っている。いや、配信自体が途切れているのかもしれない。


「MOCA……いる?」いろはが震える声で呼びかける。


「……ここにいる。マスター、動くな。何かが……来る」


MOCAの声も、いつになく硬い。


そして――。


『アソボウ……』


『ミツケタ……』


『イタイ……クルシイ……モット……』


『ココカラ……ダサナイ……ズット……イッショ……』


四方八方から、壁の中から、床下から、すぐ耳元で囁くように、無数の声が重なり合った、本物の怨嗟えんさの声が響き渡る。


ヒッ、と息を呑むいろは。恐怖で体が動かない。


暗闇に、ゆっくりと、無数の赤い光点が浮かび上がる。


一つ、二つではない。通路の奥にも、壁にも、天井にも。


『うわああああああ』

『赤い目!?』

『プツプツしてるぞ』

『カレンの配信切れた!?』

『こっちも切れそう!』


それは、まるで、闇そのものが無数の目を持って、こちらを凝視しているかのようだった。その赤い光は、憎悪と苦痛に満ちているように見えた。


「……まずいな。これは、想定を遥かに超えている」MOCAが低く呟く。その声には、AIらしからぬ、明らかな焦燥が滲んでいた。


そして赤い光点が、ゆっくりと、こちらに近づいてくる――。

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