人間には戻れない
ドラム瓶
人間には戻れない
半分陰った月を見上げて、女がひとつ、ふうと息をついた。
夜風が時おり、女の座る窓辺のカーテンを揺らしていく。灯りのない質素な室内には、女が一人、男が一人と、それから死体が一体。胸で手を組んだ骸からは、やすらかな顔とは裏腹に、ごっそりと肉が無くなっていた。
「私たちも、同じことをするのよ。人を襲って喰い殺す魔物。トバリって、いうのだけれど」
男女のうち女性の方が、そう男性に語りかけた。
「貴方も、そうなのかしらと思って。しないでしょう、人間が、そんなこと」
「…………」
男の答えはない。まあ良い。
だいいち、お喋りをする予定も、本当はなかったのだから。
「ねえ、貴方に興味があるのよ。どうしてそうなったの? 何か飲まされた覚えなんてあるかしら?」
歌うように女は続ける。
「私たちの毒って、手に入れられるらしいのよね。眠るように死ねるのですって、運が悪ければ……」
いや、良ければだろうか。
「運が良ければ、死なずにトバリになるのだけれど。そうなの、貴方」
何も男は答えない。
「それとも、血の方かしら。私たちの毒って、つまりは血なのですもの。誰かに血を飲まされたなんて……嫌ね。だったら、飲ませたトバリが面倒を見ているわよね」
男が相槌を打たないので、一人で話が広がってしまう。
「ねえ、貴方。耳が削がれてないのなら、お返事くらいしたらどうなの」
きつめにそう問いかければ、尻の下から、やっと言葉が返ってきた。
「返事がいるなら、どいてくれないか」
男の背から、どけということだろうか。捕縛して後、話をするのに、取り急ぎ椅子になってもらったのである。ぬくくて良かったのだが。
「そんなことを言って貴方、逃げるつもり」
「重くて息ができない」
「まあ失礼」
やはり初志を貫徹しておこうか。そんな考えが頭をよぎる。とはいえ、その為にも男の上から降りる必要はあるので、窓際の椅子に腰掛け直しておいた。
縄を解けば、男は意外と上背のある良い体格をしていた。しかし、やつれている。骨ばった指が黒衣からのぞく様は、どこか鴉の鉤爪のようだ。
「まともに食べてないの、貴方」
たった今、食事を済ませたばかりの男には似つかわしくない質問である。だが、どうにもそんな印象を受けた。
「…………」
男の答えはない。
背から降りた所で、喋らないではないか。
「背から降りた所で、喋らないじゃない」
思ったことが、そのまま口から出た。
口数の少ない男から、それでも聞き出した所によると、男は下級の将校だったという。退役した後、真っ昼間に人を襲ってしまい、何人か斬って逃げてきたらしい。
「手配もされるわね、その様じゃ」
男には懸賞金がついている。家族三人が、慎ましく半年は暮らせる程だろうか。
「だというのに、駄目じゃない、貴方。隠れようって気が無いんですもの。死にたいの?」
「捕えられたなら、それでも良かった」
「まあ。自棄になっていたってこと」
肯定するように、男の唇が薄く笑む。その後、だが、と彼は続けた。
「……トバリと云ったか。同等の境遇を辿る者が、いるとは思わなかった」
「あら、そう」
「少し救われた。同じ苦しみの……」
「待って」
聞き捨てならなかった。
「苦しんでなんかないわ、憐れまないで頂戴」
「…………」
「幸運だったのよ。毒の林檎を手渡されて、それでも死ななかったの。ラッキーでしょう?」
返事はない。だが続けた。
「しがらみも無くなって、好きに振る舞えるようにさえなったわ。人間なんか、どうにだってできるもの。私は楽しく生きているわよ」
「君はな」
男の、どろりと濁った目がこちらを見る。疲れ果てた眼差しに紛れた、わずかな苛立ちと、敵意。
「そういう者しか、生き残らないんだろう。心底魔物に成れる奴しか。人を殺せず、人知れず死んでいった、善良な其れがいただろうに。だが」
君には、見えない。
確かに男はそう言ったようだったが、定かではなかった。
頬を張り飛ばしたからだ。
男は、怒るでもなく流し目でこちらを見ている。
暗い目だ。
腹が立つ。
私だって。
……私だって?
「……俺を、殺さなくて良いのか」
「…………」
……寸の間、言葉が出なかった。
「知っていたの、貴方」
この男は、殺した方がいい。そう王様と話したのは、ひと月ばかり前だったろうか。
男のやり方は、少々まずかったのだ。人を襲って隠しもせずに、わかる形で置いてきていたのだから。
そんな事が続けば、人間に警戒される。警戒されればされるだけ、他のトバリも危険になるというものだ。その警戒を解くには……
犯人を、捕まえさせてしまえばいい。
捕手を喋られても困るから、首の状態で、だ。
「殺されたいの、貴方。さっき、生きてみたくなったと言っていたようですけれど」
「死に方を選べた義理じゃない」
「あら、散々しでかしてきたから、まともに死ねなくても仕方がないってこと」
男が頷いた。
「そう。暗い男ね」
とはいえ、出鼻を挫かれてより、どうもそんな気も無くなってしまっている。
「一度は見逃してあげるわ。二度目があるかは、貴方の努力次第」
「…………」
しばらくの沈黙が流れた。すっかり月はその姿を雲に隠し、夜の闇は深くなっている。
やがて、鷹揚と男は立ち上がった。それから別れのひと言を告げるでもなく、どこか暗がりへと消えていった。
男が去って後、すぐに動く気にもなれず、なんともなしに部屋を見渡してみた。視線は亡骸の、眠っているような顔で止まる。
男は遺体の目を閉じ、服を整え、手まで組ませていた。
喰われているという異常さを思えば、むしろかえって猟奇的である。空いた窓から男を見つけた時は、いの一番に唖然としたものだ。
それでも殺すつもりで来たので、呆れながらも様子を伺っていた。こちらは屋根の上であったし、夜更けなので見つかるまいと思ったのだ。
男はこちらに背を向け、座り込み……いつまでたっても、動かなかった。いい加減に飽きた頃合いで、なんでもいいから一息に片づけてしまおうと、組み敷いてみて驚いた。
「泣いているの、貴方」
そのもらい泣きが、今になってやってきたのだろうか。男を見送った窓の夜風が、ひとすじ濡れた頬を冷やしていく。
「……そんなに、悲しいことだったかしら」
もう人間には戻れない。
とっくに慣れたはずだったのに。
そういえば、お互いに名前すら知らない。
なぜだかあの暗い目の男に、もう一度会いたくなってしまった。
人間には戻れない ドラム瓶 @drumbottle
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