第14話 Share a quarter -貴方のための唄-.4
がらり、と部室の扉を開けて入ってきたのは、珍しく霞だけだった。
「はよーっす」
私は休憩がてら、現在進行形で練習している曲の楽譜と睨めっこしながら紙コップに注がれたコーヒーを片手に霞へ挨拶する。そうすれば彼女も、「おはよ」と人好きのする笑みを浮かべる。
二人して『おはよう』なのは、ぼけてしまっているからではない。今日は土曜日、昼まで部活動の日である。…まあ、盛り上がり具合によってはそのまま夕方まで演奏しているのだが。
「一人?奏は?」
「先生に呼ばれたから少し遅くなるって」
「はっ、くっつき虫も先生には適わない、か。…なんか呼び出されるようなことしたの?あいつ」
「違うよ、むしろ逆。このまま成績を維持していければ、受験のときには国立の推薦を出せるだろうって…そういう話みたい。詳しくは教えてくれなかったけど」
「国立ぅ?推薦?」私はその話に目を剥いた。「か、奏が?推薦?冗談でしょ」
「冗談じゃなくて…奏、特進だよ?一葉だって、奏が頭良いの知ってるでしょ」
「それは、まぁ…」
悔しいかな、奏には中間テストや期末テストの際にお世話になったことがある私は頷くしかない。
あんな間の抜けた話し方をするくせに、奏は学年全体で見ても上から数えたほうが圧倒的に速いほどの成績優秀者だった。いや、まあ、奏と言葉を交わしていれば馬鹿でもその地頭の良さは理解できるのだが…問題はそこではなかった。
「私もあいつの頭の良さは知ってるよ。疑ってるのはそこじゃなくて、奏みたいに日頃の行いが怪しい人間が推薦されるかもってところ」
「あぁ…」
霞も思うところはあったのかもしれない。しかし、「奏は昔から要領がいいから…上手に他の人に責任押しつけちゃうんだよね」と肩を竦めた。
「あー、例えば私とかにね。くそっ」
この間だってそれで上手くやられた。思い出すだけでムカムカするが、それをこの慈悲深い幼馴染にぶつけたところで、適当に流されるのが関の山だ。
とにかく、まだ奏は遅くなるということらしい。私のギターと歌と、霞のキーボードだけで演奏を始めるのも妙だし…。
私はちらり、と霞の横顔を盗み見る。彼女はのんびりとキーボードの準備をしているらしかったが、今すぐに弾きたいという雰囲気でもない。
しばし、私は逡巡する。和歌との件を相談するのであれば、奏という愉快犯がいない今がチャンスなのではないか、と。
霞であれば、茶化さず真面目に聞いてくれるだろう。親身になったアドバイスをもくれるはずだ。何より、彼女は私よりも恋愛については経験がある。色々と“進んでいる”可能性だってある。
防音仕様のため、無数の穴が空けられた壁を見つめる。焦点が合わなくなるような感覚を覚えながら、あくまでなんとなくを装い、私は霞に尋ねる。
「あのさぁ、霞。ちょっと質問していい?」
「んー?もちろん」
準備しながらで反応する霞。ちょうどいい。このまま、自然に…。
「ぶっちゃけ、霞と奏ってさ、どこまでやったの」
一瞬の静寂。凍りついた空気には、ナチュラルテイストなど微塵もなかった。
おそるおそる、顔を霞に向ける。そうすれば、顔を真っ赤にして口を何度も開け閉めしている霞と目が合った。
(うっわー…顔、真っ赤。熱あんじゃない、あれ)
ちょっと可愛い、なんてことを考えてしまった数秒後、霞は酷く狼狽した様子でなぜか数歩後退したのだが、その拍子に自分の右足に左足をひっかけてしまい、派手な音を立てて椅子を薙ぎ倒しながら後ろに倒れてしまった。
「い、いたた…」
霞は椅子で打った背中をさすりながら上体を起こしていたのだが、それよりも先に、まくれ上がったスカートをどうにかするべきだと思った。なぜなら、水色の下着が半分ほど見えてしまっているからだ。
「か、霞、大丈夫?」
何気ない顔でそばに近づき、片手を伸ばす…が、小柄な彼女の艶めかしい太ももに視線が吸い寄せられてたまらない。
「うぅ…大丈夫じゃないよぉ…ばか」
「なんで私が怒られんの…?」
ぐいっと霞を引き起こしながら愚痴を垂れれば、当然というかなんと言うか、霞にじろりと睨みつけられる。
「一葉が急に変なこと聞くからだよぉ!」
「う…」
変なことを聞いている自覚のある私は、それで何も言えなくなる。
霞は依然として、下から私を睨み上げていたのだが、ややあって、すっと視線を逸らすと、「別に、私たちは何も…」と滑舌悪く言った。
「何もぉ?」
奏の顔が浮かぶと同時に、そんなわけないだろ、と勝手に顔が歪む。
「何も!」
「嘘じゃん。それ」
「ほんとなの!プラトニックな関係なの!私たち!」
「ぷ、プラトニックぅ…!?」
奏のにやけ顔が浮かぶ。残念ながら、純愛とは程遠い面構えだ。
「いいじゃん!別に!放っておいてよ!」
顔を真っ赤にして激昂する霞の様子はとても珍しいものだったし、少し可愛くも思えたのだが、さすがに勢いが強く、それに気圧された私は、「ご、ごめんってば」とぼやきながら後退を余儀なくされる。
彼女は一定の距離を保った私をじろりと睨み続けたまま、「前々から思っていたけど」という前置きの後にこちらを責め立てた。
「一葉って、デリカシーがないよ。言いたいと思ったことをすぐ口にして、やりたいと思ったことをすぐに行動に移してるでしょ。我慢を知らないよね、ばか」
途端、私は雷鳴に打たれたような衝撃を受けた。
霞が怒り心頭でぶつけてきた言葉たちは、まさに、私が和歌に怒られるときによく指摘されることそのものだったのだ。
そしておそらく、今回、和歌が反省しろと私に叱責したのも同じ内容だっただろう。なんということだ、それを霞からすらも言われるなんて…――いや、それだけ周囲から私はそういう人間に見えるということなのだろう。
いつもなら、『周りからどう見られようと結構。興味なし』と鼻を鳴らして一蹴することだが、今回は話が違う。和歌から反省を命じられているのだから。
私という人間の中心にあるものは、そう多くない。
音楽と、和歌さん。たったそれだけなのだ。
その片方が危ぶまれているこの状況…もはや、是非もない。
「霞!」
突然大声を出した私に対し、びくっ。と霞が肩を震わせる。
「な、なに。癇癪起こしたって、今日は譲らないんだからね」
私は彼女の肩を両手でがしりと掴んだ。「ひえっ」と情けない声を上げる霞のことなど無視して、『私の悪いところ、教えて下さい!』とでも全力懇願しようとしていた、まさにそのときだった。
がらり、と部室の扉が開かれる。姿を現したのは志藤奏だった。
また間の悪いときに来た、とその瞬間は何となくそう思ったのだが、いつもならすぐに減らず口を叩くだろう場面にも関わらず、奏は私と霞をちらりと見ても、真面目腐った声を出した。
「霞、一葉。何やってるの?」
当然だが、私よりも霞のほうが慌てていた。まぁ、一見すれば他の女とじゃれているように見えないこともないから、しょうがないだろう。
「ち、ちがくてね、奏。一葉が急に意味の分からないこと言ってくるから…」
「意味の分からないってなに。私は真剣に――」
自分がまだ言葉足らずのまま状況を説明していないことも忘れ、霞に反論しようとしたところで、珍しく奏がそれを制した。
「はいはぁい。静粛に。後で聞くからぁ」
おや、と私は内心首をひねる。きっと霞も同じだったことだろう。
こんな美味しいシーン、からかい好きな奏が見過ごすはずがない。どこか調子でも悪いのではないだろうか…。
そんなことを私と霞が考えていたところ、不意に、奏が静かで無感情な声音でこう告げた。
「霞、一葉…お客さんだよ」
「お客?」
声を揃えた私たちの前から、すぅっと奏が横にスライドする。そうすれば、廊下へと続くドアが開かれたままそこにあったのだが、そのすぐ裏側で、何やら人影が二つほど揺らめいていた。
無言のまま、私と霞は目を合わせる。そしてそれから、奏のほうに視線を投げたのだが、彼女は芝居がかったふうに肩を竦めただけで何も言わなかった。
やがて、人影が動いた。
ドアの後ろから姿を見せたのは、髪をポニーテールに結った女の子。
瞳は少し吊り上がっていて、きつめの印象を受ける。ただ、私とは違って真面目腐った感じがした。
緊張からか、きゅっと引き締められた唇が、意を決したように開く。
「初めまして、私、一年の
用意してきたのかと思ってしまうほど、丁寧で体裁の整った自己紹介。それを一言も詰まらずに口にできているあたりが、この長瀬とかいう人間の人格を端的に表しているような気がする。
目は口ほどにものを言うらしいが、なるほど、確かに彼女はその典型例だ。礼儀を重んじる言葉以上に、気の強さが伝わってくる。
「は、初めまして…」と一拍遅れて霞が反応する一方、私は突如自分たちの領地に入り込んできた異物を受け入れきれず、ただ黙って彼女らを見つめるばかりだ。
「はい。よろしくお願いします!」
ぺこり、と深く頭を下げる長瀬。何をよろしくするのか、微塵も理解できなかった。
私は奏に状況の説明を求めようとしたのだが、それよりも早く、長瀬が一歩廊下のほうに後退し、未だ扉の陰に隠れているらしいもう一人に向かってこんなことを言った。
「真那も、ほら、挨拶しなくちゃ」
「あ、う、うん…」
長瀬に促されるようにして陰から出てきたのは、気弱そうな――もとい、陰気臭そうな女の子だった。
「い、
こちらは正直、どんくさそう、という印象を抱いた。
ピンで留めるか切るかすればいいのに、と考えずにはいられないほど長く伸びた前髪が両目を隠している。また、話し終わるや否や長瀬の背中に隠れる彼女の姿には、わずかな苛立ちも覚える。もっと堂々としていればいいのに、と。
私の感情が態度に出ていたのか、伊藤は徹底的にこちらと視線を合わせないようにしている気がしたのだが、それがますます私の感情を苛立たせた。
霞がまたよく分からない様子のまま、「初めまして…」と返す傍らで、私は奏をじろりと横目にして問う。
「誰、この子たち」
「長瀬友希さんと伊藤真那さんだよぉ。話、ちゃんと聞いてたぁ?」
「聞いてたよ。私が質問してんのは、そういうことじゃないって分かってんでしょ」
段々と苛立ちを隠しきれなくなってきた私の詰問を目の当たりにして、伊藤がよりいっそう怯えたように長瀬の背後に隠れる中、奏はこちらを煽っているとしか思えないほど仰々しいため息を吐くと、「一葉ちゃんこわぁい」などとほざいた。
「あんたねぇ…!」
「ちょっと、一葉、落ち着いて…」
今にも掴みかかりそうな私に、霞が何か声をかける。だが、それはむしろ逆効果で、私は眉間に皺を寄せて彼女も睨んだ。
「だから霞!あんたがこいつを甘やかすから――」
怒りの矛先が霞にも向こうというそのとき、ようやく奏が事態の説明を行った。
「入部希望者だって」
しん、と一瞬の静寂が訪れる。
私と霞は目をパチパチさせてから長瀬と、それからほとんど姿の見えなくなっている伊藤を見やった。
生真面目で優等生タイプに見える長瀬に、どう見ても目立つことが嫌いそうな伊藤。
「誰が?」
聞き間違いだと思った私は、思わずそう尋ねていた。今思えば、まぬけな反応だ。
「この子たち」と奏が二人を交互に指差す。
「どこに?」
「ウチに決まってるでしょぉ。一葉、脳みそにプリンでも詰まってるぅ?」
「あぁ?」
シンプルに煽られて威圧的な声が出るが、奏はどこ吹く風、半笑いのままだ。
「とにかくぅ、今日は一先ず見学だけさせておいてって、言われてるのぉ。だから、よろしく」
「よろしく?誰に?」
「せ・ん・せ・い。…ほら、扉閉めて。準備しようよ」
億劫そうに片手をひらひらと動かし、扉を閉めるよう一年生たちに示した奏は、私と霞の困惑など無視して、自分だけ楽器の準備を始める。
私は何が何だか分からないまま、長瀬と、伊藤のほうを見た。
「あ、よろしくお願い、します…御剣先輩」
ぺこり、とまた律儀に頭を下げる長瀬。その向こうには、隠れる壁が動いたせいで慌てふためいている伊藤の姿。
「…はぁ…」
「あ、よ、よろしくね、二人とも!ゆっくりしていって!」
ろくな返事もしない私の代わりに、霞が急にスイッチが入ったみたいに愛想のよい声で承諾する。その向こう側で私は、長瀬がいつ私の名前を知ったのかをぼんやり考えるのだった。
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