一方通行交換日記

むめい

一方通行メモリー

放課後の図書館には、ひと気がなかった。

 木造の本棚が軋む音と、ページをめくる静かな気配だけが、空間を満たしていた。

 西日が窓ガラスを通って差し込み、机の上に淡い影を落とす。


 佐久間葉は、その静けさが好きだった。

 教室の賑やかさの中では、呼吸の仕方すらわからなくなるけれど、ここでは誰にも邪魔されず、ただ黙って本の世界に沈むことができる。


 


 ある日、背の低い書架の奥に、布張りのノートが挟まれているのを見つけた。

 色褪せた水色、すり切れた角。手に取ると、ページの間から乾いたインクの香りが微かに立ちのぼった。


 最初のページに、たった一行だけ、丁寧な文字が書かれていた。


 「もしよかったら、あなたのことを教えてください。交換日記、してみませんか?」


 いたずらだろうか。ふと思ったが、どこか切実な響きがあった。

 誰かが、ほんとうに、誰かとつながりたかった。そんな声のように感じられた。


 葉はページの下に、自分の名前と短い挨拶を書いた。

 ——ほんの気まぐれだった。返事が来るとは思っていなかった。


 


 けれど次の日、ページを開くと、返事があった。


 「こんにちは、葉さん。返事がもらえるなんて思っていませんでした。私は高原しずくといいます。図書館が好きで、ここによくいます。」


 インクの色も筆跡も違う。まぎれもなく、誰かの手で綴られた文字。


 その日から、交換日記が始まった。


 


 しずくの言葉は、どこか古風だった。「拝読しました」「お優しいですね」など、今の高校生が使うには不自然な言葉遣い。でも、そこに作為は感じられなかった。ただ丁寧で、真面目で、どこか不器用な人。


 葉は次第に、自分のことを少しずつ書くようになった。

 教室で感じる疎外感。家での静けさ。心に残った一節のこと。

 しずくは、何も否定せず、すべてを受け取って返してくれた。


 


 数週間が過ぎた頃。葉はふと、彼女に聞いた。


 「ねえ、しずくさん。あなたは、いつの人なの?」


 ノートの返事には、一言だけこうあった。


 「気づいてしまいましたか?」


 


 それから図書館の壁にある展示で、葉は真実に触れた。

 モノクロ写真の一角に、「昭和四十七年・在籍 高原しずく 在学中に逝去」の文字。


 五十年前——。

 彼女は、もうこの世にはいなかった。


 


 葉は一度、ノートに何も書けなかった。

 ペン先が宙を泳ぎ、何を書いても嘘になるような気がした。


 それでも次の日、しずくの言葉はそこにあった。


 「もう、いなくなった人間だってわかっても、まだ話してくれますか?」


 


 それが、しずくの本当の願いだった。

 誰かと心を通わせること。正体を受け入れても、言葉を交わし続けてくれる人に、出会うこと。


 交換日記は、しずくが生前にずっと夢見ていた“約束”だったのだ。


 「ねえ葉さん。わたしね、病院のベッドの上で、ずっと想像してたんです。誰かとお話する日を。名前を呼ばれることを。」

 「だから、こんなにも長くここに留まってしまいました。叶えられなかった夢が、まだこの場所に残っていて……」


 その言葉に、葉はこう返した。


 「だったら、まだ続けよう。僕も、もう少し話したいから。」


 


 桜が咲くころ、彼女からの返事は少しずつ短くなりはじめた。


 「春ですね。葉さんの学校の校庭にも、咲いていますか?」

 「最近、文字を書くのがゆっくりになってしまいました」

 「もうすこしで、お別れかもしれません。でも、こわくないんです」


 ある日の終わりに、彼女はこう綴っていた。


 「あなたが、わたしの最後のページを書いてくれました」


 


 葉は、深く息を吸って、最後の返事を書いた。


 「しずくさん。たぶん僕は、君と出会う前よりも、自分のことを好きになれた。

 だから、ありがとう。そして、おやすみ。いつかまた、どこかで。」


 


 ノートを閉じたあとも、葉はしばらくページを見つめていた。

 もう返事は来ない。それでも、何かが確かに残っていた。


 それは“死者”との出会いではなく、“心”との出会いだった。


 


 今日も放課後の図書館に、西日が差し込んでいる。

 静かな木の机の上には、あのノートがある。ページはもうめくられないけれど、その余白には、たしかに、言葉が生きている気がした。

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