知らぬ者

綴野よしいち

第1話:僕の中の「空白」

泣いていた。


 僕の目の前で、女の子がしゃがみ込み、肩を震わせていた。赤く擦りむけた膝。足元に転がる壊れたぬいぐるみ。鼻をすすりながら、彼女は僕を見た。


「……いたいの……」


 僕は見下ろす。彼女の目の奥には、助けを求める感情があった。たぶん。


 でも、僕の中には何も浮かばなかった。


 痛い、という言葉を聞いても、何も感じなかった。血を見ても、ぬいぐるみの壊れた腕を見ても、心は何一つ揺れなかった。


 代わりに、頭の中で計算が始まった。この子が泣いているのは、膝を擦りむいたから。その原因は、段差に気づかず転んだから。僕が先に注意していれば避けられた。

 だから、僕は――「悪いことをした」とされる立場になる。


 そう判断した僕は、口を開いた。


「ごめんね」


 泣き止む。女の子は僕をじっと見つめる。僕の謝罪が届いた、らしい。


 理解したふりをして、僕は笑う。

 泣かせたくなかったからじゃない。怒られたくなかったからでもない。

 ただ、そうすることが正解だからだ。


 僕の人生は、ずっとそれだった。


 周囲が言う「善い行い」を覚え、それを真似て生きる。

 でも、本当のところは、僕には「善」がどういう感情なのか、まるでわからない。

 人が死ぬニュースを見ても、泣いている家族を見ても、僕の胸の中には空洞があるだけだった。


 その空洞に、初めて名前がついたのは、大学に入ってからだった。


「反社会性パーソナリティ障害、って知ってるか?」


 ある教授が言った。心理学の講義のなかで。


「共感性が極端に乏しく、他人を利用することに罪悪感を持たない。罪を犯しても反省をしない。そういう人たちは、しばしば社会のルールの中に紛れ込む。表面上は普通に見えて、むしろ非常に頭が良かったり、魅力的にさえ見えることもある。でも、彼らの心の奥には――善悪の区別がない」


 それを聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 「それ、僕のことじゃないか」と思った。


 そして――その通りだった。

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