第8話「スマートグラスの閃光」
模試当日の朝。
レンは鏡の前で、ネクタイを直していた。
部屋の奥、机の引き出しには、Shadowのスマートグラスがしまわれている。
鍵はかけたはずなのに、手が勝手に引き出しへ伸びる。
(……使わない。使わないって決めたじゃないか)
でも、ふと頭に浮かんだのは、数日前に配られた進路相談シート。
志望校:国立医学部
現在の偏差値:62
必要目標偏差値:72
「あと、10足りない」
その現実は、やはり重かった。
どれだけ変わろうと努力を始めようと、「今」はまだ足りない。
(この模試で点を取れなかったら……)
その“もしも”が、再び心の隙間に入り込む。
レンは無言で引き出しの鍵を開けた。
試験会場となったのは、普段あまり使われない講堂だった。
広い空間にずらりと並べられた机。
四隅には黒い球体カメラ。天井にはマイクと補助照明。
咲のAI監視システム《ALIS》が、本格的に導入される初の実戦――その舞台だった。
天野咲は教員控室のモニター前にいた。
彼女の前には、50人分のリアルタイム視線・反応解析のログが並ぶ。
レンのIDは、中央の「EX-17」。
一番上にピン固定され、常時監視対象として指定されていた。
「来なさい、レンくん。君の選択を、私は見届ける」
咲はヘッドホンをかけ、監視プログラムを起動した。
《ALIS起動:全対象モニタリング開始》
《瞳孔変化/呼吸率/瞬目頻度/指先移動パターン=録画》
試験開始10分前。
レンは机に筆記用具を並べる。
制服の内ポケットの中――そこに、Shadowがある。
使わないと決めた。
芽衣と交わした会話、咲の静かなまなざし、自分で書き始めたノートのページ。
それらが脳裏をよぎる。
でも、
(今ここで点が取れなかったら……)
芽衣と同じ大学に行ける保証もない。
教師や親の視線に耐えきれなくなる。
未来が、閉じてしまうような気がした。
そして、指が動いた。
内ポケットに忍ばせたShadowの電源を入れる。
LEDは点かない。音もない。
ただ、静かに起動する。
レンは眼鏡を装着した。
“あの日の感覚”が、スッと戻ってくる。
呼吸が整う。手が安定する。心臓の鼓動さえ、少し静かになる。
「接続完了。モード:Exam Ready」
そのときだった。
咲の端末に、警告が走った。
《EX-17:瞬目パターン異常》
《左目→右手→視線下→上→戻る=ループ3回》
《機器反応疑い(推定:骨伝導/カメラ入力)感知》
「来た……!」
咲は端末に映るレンの瞳の動きと指先のリズムを即座に記録。
それは、Shadowのユーザー特有の“使用前動作パターン”と95%以上一致していた。
だが咲は、動かなかった。
彼女が求めているのは、“見つけて罰する”ことではない。
レン自身が、自らを裏切る瞬間に気づくこと――それだけだった。
試験開始のチャイムが鳴る。
レンは問題冊子を開く。
第1問、英文長文。
(……行ける。見れば、送って、聞ける)
だが、そのとき――
Shadowの音声が、なぜか届かなかった。
「……?」
グラスは正常。スマホも接続中。
だが、肝心の音声が耳に入ってこない。
「再送信。No.1」
沈黙。
そのとき初めて、彼は自分の指が震えていることに気づいた。
(……俺、怖がってる?)
視線を上げると、前方の黒いカメラと目が合った気がした。
そこには誰もいないのに、誰かが確かに“見ていた”。
芽衣の声が、脳裏に蘇る。
「“進むため”に使うなら、それはズルじゃないって思う」
でも今、自分がしていることはどうだ?
進んでいるか?
それとも、逃げているだけじゃないか?
目を閉じる。
手の中のペンが、わずかに汗ばんでいた。
そして──レンは、そっとグラスを外した。
机の下で、ゆっくりとケースにしまう。
AIの声が耳に届かなくても、
誰の力も借りなくても、
今はただ、自分の力で「やる」と決めた。
監視室。
天野咲のPCに、新しいログが届く。
《EX-17:視線正常化》
《瞬目周期:標準値に復帰》
《筆記速度・目線追跡:安定傾向》
咲はヘッドホンを外し、深く息をついた。
「……選んだのね、君自身が」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
だが確かに、レンの行動が、ひとつの“選択”を意味していた。
試験終了のチャイムが鳴る。
ペンを置いたレンは、呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がった。
自信はなかった。
でも、それでよかった。
今日は、「誰にも答えをもらわずに最後までやりきった」――
それだけで十分だった。
彼は空を見上げた。
重たい雲が去り、秋の陽射しが差し始めていた。
▶次回:第9話「先生の逆襲プログラム」
Shadowユーザーの増加に警鐘を鳴らす天野咲は、ついに“AIでAIを狩る”対策プログラムを開発。そのとき、影のチューターの正体が明かされる――
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