冥約都市ーCity of Oathsー

迂遠るら

壊れていく日常

 パンッ! パンッ! と、空気を断ち切るような打撃音がジムの空間を満たしていた。


 リングの中央に立つのは、一人の少女──いや、少女と呼ぶには少しだけ大人びた影を帯びた存在。黒のタンクトップにスパッツをまとい、肩口で切り揃えた栗色の髪が汗でわずかに揺れる。やや吊り目の大きな瞳が生き生きと輝き、その奥に宿る火花が、彼女の内に秘めた熱を物語っていた。


 しなやかに引き締まった肢体が動くたびに、筋肉が美しく浮かび上がる。ジャブ、ストレート、キック──ひとつひとつの動きが音楽のようにリズムを刻み、彼女の汗と熱と意志が空間に染み渡っていく。


「いいぞ、その調子! もっと腰を入れて!」


 トレーナーの掛け声に、彼女はウィンクでもしそうな笑みを浮かべて応える。首筋を伝った汗が谷間に吸い込まれていくさまは、まるで魅せるために設計された芸術のようだった。


「ラストっ!」


 そして──鞭のようにしなる脚が、鋭く弧を描いてミットを叩き割らんばかりの音を響かせる。

 一瞬、周囲の空気が止まった。強く、美しく、どこか危うげな彼女の姿に、誰もが視線を奪われていた。


◆ 


 ──突然だが、神代澪奈カミシロレイナはラーメンが好きだ。


 特に今日のように小雪がちらつく寒い日に、ジム帰りに冷えた体で食べる一杯は、世界のどんなご馳走よりも幸福だと信じて疑わない。目の前に置かれた湯気立つ丼に箸を伸ばし、まずはスープを一口。


「……っくー! やっぱ、これだよね!」


 濃厚な豚骨の旨味が舌に広がると、体の芯までじんわりと温まる。次いで、もちもちとした麺をすする。スープとの絶妙な絡みが、噛むたびに幸福感を倍増させた。


 この店は、レイナがバイトの途中で偶然見つけた隠れ家のような店だ。無口な店主が一人で切り盛りしており、愛想はないが腕は確か。レイナのお気に入りで、誰にも教えたくない宝物のような場所。


 とろけるチャーシュー、シャキシャキのメンマ。どれも完璧だ。

 気づけば、丼はほとんど空になっていた。


「……もう終わっちゃうのかぁ」


 名残惜しそうにスープの最後の一滴まで味わい、深いため息。

 心も体も満たされた彼女は、店主に一礼し、外の世界へと歩み出した。


◆ 


 夜の街に、雪がふわりと舞っていた。肌を刺す冷気の中、レイナは愛車へと向かう。


「ヒカル、出発!」


『かしこまりました、お嬢様。ですが……また昼間からラーメンですか。もしや、恋に落ちたい殿方への牽制では?』


「なっ、何言ってんのよ! いるわけないじゃん……って、知ってるくせに!」


 視界の端に、肩をすくめる少年執事の姿が浮かぶ。レイナの電脳にインストールされた自立型支援AI《ヒカル》。脳内インターフェースを通じて視界に直接投影される彼は、冗談交じりにレイナをからかいながらも、いつもそばにいる。


『フフ、お嬢様。世の中、何が起きるか分かりませんよ? なにせ、クリスマスイブイブですから』


「だからって、なんなのよ……!」


 ツンとした態度で愛車L.U.N.Aルナのシートに跨がり、アクセルを軽くひねる。エンジン音もなく、都市のネオンを受けて滑るように走り出すマシン。雪を反射して、街全体が幻想的に輝いていた。


◆ 


 イブの夜。レイナは配達のバイトで街を駆け巡った。

 忙しない注文と寒空の中、それでも「ありがとう」の一言に救われて、笑顔が戻る。ふと、ラーメン屋の店主の顔が浮かぶ。寡黙だけれど、温かさがにじみ出る男。あの味。あの空気。次の休日には、また行こう。そう思った。

 夜の帳が街を包み込むころ、自宅へ戻ったレイナは、ようやく一息つく。暖房を入れ、ジャケットを脱ぎ捨て、疲れた体を癒すべく風呂場へと向かった。


『お疲れ様でした、お嬢様。熱いシャワーで冷えを癒してくださいませ』


「……やるじゃん、たまには気の利いたこと言うのね」


 温かい湯が体を包み、全身から力が抜けていく。湯けむりの中で、ふと、レイナはある人の顔を思い出す。

 ──兄。

 このバイクを譲ってくれた、少し頼りなくて、それでいて何より大きな存在だった兄。


(……アニキ、今どこにいるんだろ)


 胸の奥が、少しだけざわついた。

 でも、それを打ち消すように頭を振る。


「……寝よ。明日も早いし」


『おっと。お嬢様、その前にひと勝負です!』

このAIは何故かゲームを趣味にしていて時折りこうして勝負を挑んでくる。殆どがフルダイブのFPSだが、格ゲーの時もある。


「アンタも好きだね。AIがゲームなんてやって面白いの?」


『勿論です。やはり人間相手だと、決められたプロトコルで動COMコンピュータのようには行きません。日々勉強、精進の毎日です!』


「ハイハイ、解った解った…」

 

ヒカルの煽りにちょっと熱くなってしまったレイナだが、適当に食事を済ませ、布団に潜り込んだ。

柔らかな温もりがレイナを包む。


『では、お嬢様。おやすみなさい』


「……おやすみ、ヒカル」


 まぶたがゆっくりと閉じていく。

 夢の中で、彼女はまた、あのラーメンの味を思い出す──。



 翌朝、目覚ましの音に起こされたレイナは、寝ぼけたままキッチンへ向かった。

 インスタントのコーヒーを淹れ、朝食を食べる前に体重計に乗ったレイナが、デジタルの表示がある値で止まろうとするのを絶望の表情で見ていると…


 『お嬢様、ニュースをご覧になりますか?』


 「え、なに? また政府の会見でもやってんの?」


──だが、モニターに映った映像に、レイナの手が止まった。

 画面には、火の手を上げる一軒のラーメン屋が映っていた。


「えっ……ラーメン屋が……って、待って体重まで燃えてるじゃん!」


『摂取カロリーが報復に来たようですね、お嬢様』


──こうして神代レイナの日常が壊れ出していった…



※L.U.N.A:Lightweight Utility Navigational Automobility

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