めげない伯爵令嬢と水晶の森
shinobu | 偲 凪生
第一部 シンシアと水晶の森
第1話 シンシアと水晶の森
§
澄みわたる青空を一羽の鷹が横切っていく。
人間の積み上げた城壁は、鷹には関係ない。
羽根を真っ直ぐに広げて風に乗り、大きく旋回。
山を、大河を、森を。都市をその双眸に移しながら、鷹は雄大に飛ぶ。
向かう先は王都の東、とある伯爵の館だ。
「カシア!」
少女が叫ぶ。
それが己の名だと知っているかのように、鷹は館の――二階のバルコニーへと降り立った。
子ども部屋のバルコニーでカシアを待ち構えていた少女の名は、シンシア。
目の前の鷹へ『カシア』という名を与えた張本人だ。
間もなく10歳を迎えようとしているシンシアは、長く伸ばした栗毛を、左右で三つ編みに結っている。本来であればドレスを着ているはずなのだが、彼女はまるで少年のような服を着用していた。白シャツ、サスペンダー付きのズボン、革靴。
はちみつ色の瞳を輝かせながら、頬をあかく染めながら。
シンシアは、カシアへ問いかける。
「今なら抜け出してもよさそうかしら?」
人間の言葉を持たないカシアは答える代わりにバルコニーから飛び立った。
シンシアはバルコニーに向かって伸びている大木の、ひときわ太い枝に足をかけて登る。傷ひとつない手と指先でしっかりと木のこぶを掴むと、時間はかけながらも慣れた様子で大木を伝って裏庭に着地した。
伯爵家の一人娘として生まれたシンシア。
彼女は蝶よ花よと育てられ、屋敷内で淑女教育を受けている。
両親の許可なくシンシアは屋敷から出ることができない。
しかし、彼女にはひとつだけ言いつけに背く方法があった。
屋敷を取り囲む塀が一箇所だけ壊れて穴が開いているのだ。しかも、草が生い茂っていて、よほどのことがないと大人には気づけない場所に。
シンシアはためらうことなく四つん這いになり、草をかき分けて塀の外へと出た。
辺りを見渡して周囲に誰もいないことを確かめてから、全速力で走り出す。
待っていたかのようにカシアが近づいてきた。
鷹のカシア。シンシアがこうやって外へ抜けだすのを覚えた5歳の頃に、傷ついて倒れていたのを保護してやって以来、シンシアの相棒のような存在だ。
シンシアが息を切らして辿り着いたのは鬱蒼と生い茂った森の入り口。
――通称『水晶の森』。
カシアは低空飛行で木と木の間を抜け、シンシアの進む先を示してくれる。
小枝を折り、小石につまずきながらシンシアは走った。
やがて視界が開けたところに、粗末な小屋が立っていた。木造の小屋の中は薄暗い。
「ごきげんよう!!」
薄暗さをかき消すような明るさで、シンシアは声をかけた。
部屋の中央では髪と髭の一体化したずんぐりとした老人が座っていた。着ているものも布を適当に縫い合わせたかのような粗末なものだった。
名はモーヴィン。この小屋の主である。
シンシアのはつらつとした声に、モーヴィンはゆっくりと振り向く。そして目を細めた。
「これはこれは、お嬢様。お久しぶりでございます」
「本当ならもっと早く来る予定でいたのよ? 近頃、お父様ったら授業を詰め込みすぎるの」
「それはつまり、伯爵もお嬢様に期待と愛情をたっぷりと注がれているのです」
「そんなのお腹いっぱいだわ」
シンシアは頬を膨らませ、肩をすくめた。
「そうしなければならないっていうのは分かるけれど、気持ちが追いつかないの」
「ほっほっほ。焦る必要はございません。誰しもが通る道でしょう」
モーヴィンの言葉に答える代わりに、シンシアは切り株でできた椅子に腰かけた。
同じく切り株製のテーブルの上には、六角柱の水晶がいくつも並べられている。シンシアの顔ほどの大きいものから、小指第一関節分くらいの小さなものまで、大きさはさまざま。
そのなかのひとつをシンシアは指でつまんだ。
「勉強は嫌いじゃないけれど、この森で遊んだり、水晶からアムレートゥムを作っているところを眺める時間の方が楽しいのよ」
水晶はこの森に『自生』している。
『水晶の森』の名前の由来でもある。
かつて人間が『魔法』を操っていた時代の、魔力の残滓が結晶化したものと言われているが真偽は定かではない。
ただ、シンシアは水晶が自生しているところを見たことはない。
自生している水晶を刈り取るには特別な道具と技術が要るのだという。
そして、刈り取った水晶を綺麗に加工することで『アムレートゥム』と呼ばれるようになる。
アムレートゥムは持ち主を災難から守ってくれるお守りであり、この国の人々にとっては欠かせないもののひとつだ。
モーヴィンはそんなアムレートゥムの数少ない作り手だった。
水晶の森の、奥の奥へシンシアが迷い込んだのは一年ほど前。
カシアによって導かれたのがモーヴィンという、謎の老人の家だったのだ。
「いつになったら水晶の自生地を教えてくれるの?」
「ほっほっほ。
「モーヴィンったら、いつもそればっかり。……ねぇ。あしらっているんじゃなくて、もし本当に抜け出せたらいいってこと?」
「左様でございます」
分かったわ、とシンシアは若干不服そうにつぶやく。
「なんとかして抜け出してみせるから、そのときは必ず教えてね」
モーヴィンは刈り取ってきた水晶をひとつひとつ丁寧に扱う。
やすりで削ったり、革で拭いたりすることで、水晶の輝きはどんどん増していくのだ。
その変化が、シンシアはとても好きだった。
手元を、ずっと見つめていた。飽きることはなかった。
シンシアは陽が暮れるまで水晶の加工について古典語で書かれた本を読んだり、モーヴィンの作業を眺めていた。
美しい輝きを内側から放つようになった水晶は、そのまま置物にしてもいい。
もしくは装飾品にしてもいい。
持ち主の身代わりになって砕け散るときまで、それらは『アムレートゥム』として煌めき続けるのだ。
§
「どこへ行っていた!」
「旦那様。そんな大声を出さなくても、お嬢様はこうして帰ってこられたのですから」
「貴様は黙っていろ」
伯爵付きの使用人である
シンシアがいけなかったのだ。
久しぶりにモーヴィンの元を訪れたことでアムレートゥム作りを眺めるのに夢中になってしてしまい、父の帰宅までに屋敷へ戻ってくることができなかった。
大木を登って自室へ戻ろうとしているところを見つかってしまったのは、屋敷総出でシンシアを探していたからだった。
そして今、エントランスホールへ連れてこられたシンシアは説教を受けている。
「お前は伯爵家の一員であるという自覚に欠けている。
一歳下の弟は王都で寄宿学校に通っている。最後に会ったのは半年前だろうか。
どうしても見習いますとは言いたくなくて、シンシアは押し黙った。
「この家に生まれた人間の務めだ。
「……」
怒声とは違う威圧的な父の声。涙が零れそうになってシンシアは俯き、唇を噛んだ。
「大体、
「お、奥様は、公爵家のパーティーに出席されていらっしゃいます」
「ふん、娘を放っておいて呑気なものだ。もういい。シンシア、お前には罰として古典語の書き取りを命じる。教本は
「……はい、分かりました」
一度も娘と目を合わせることなく、父はエントランスホールから出て行った。
シンシアは天井を見上げた。豪奢なシャンデリアが、今のやり取りなど見ていなかったかのように眩い輝きを放っている。
(古典語は嫌いじゃない。モーヴィンにも教えてもらっているくらいだし)
モーヴィンの家にはアムレートゥムの作り方が書かれた本があるが、古典語で書かれている。最初はまったく読めないのが悔しくてシンシアはモーヴィンに教えを乞うていたのだった。
「今日は失敗しちゃったけれど、次はうまくやるわ!」
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