第2話能舞台に響く怨嗟の声



京都花影抄 - 秘められし伝統の闇 -

第二話 能舞台に響く怨嗟の声 - 黒き面の告白と血染めの扇 -


序章:闇に蠢く影


綾小路雅山の死から数週間が過ぎても、京都の空は依然として鉛色の雲に覆われていた。事件は未解決のまま、人々の記憶から薄れつつあるかのように見えたが、佐藤菜々美の心には、あの緋色の絞り染めと、名匠の死に隠された謎が重くのしかかっていた。重要参考人とされた橘蒼太の行方は依然として掴めず、捜査は暗礁に乗り上げているかに思われた。


そんなある日の夕暮れ、菜々美は京都の観世流能楽堂の前にいた。伝統芸能にも造詣の深い彼女は、今日、若手のホープとして注目されるシテ方能楽師・観世宗一郎(かんぜ そういちろう)の舞台を観る予定だった。華やかな世界の裏側にある、厳しい修練と継承のドラマに、何か事件のヒントがあるかもしれないという淡い期待も抱いていた。


開演を待つ間、ロビーに飾られた能面や装束を眺めていると、ふと、隅の方で携帯電話で話している若い男の姿が目に入った。痩身で、どこか影のある雰囲気。一瞬、錦染苑の事件で名前が挙がった橘蒼太の面影がよぎったが、確証は持てなかった。男は周囲を気にするように小声で話し終えると、足早に雑踏へと消えていった。


「何か、嫌な予感がする…」

菜々美は胸のざわつきを抑えきれなかった。


第一章:黒き面の惨劇


能の演目は「船弁慶」。平知盛の亡霊が、荒れ狂う海上で義経一行に襲いかかる、勇壮かつ悲壮な場面が見どころだ。観世宗一郎の演じる知盛は、若々しい力強さと、内に秘めた深い悲しみを巧みに表現し、観客を魅了していた。


しかし、後シテの知盛の亡霊が登場し、クライマックスに差し掛かろうとしたその時、舞台袖がにわかに騒がしくなった。何事かと観客が息をのむ中、舞台進行役の一人が慌てた様子で駆け込んできて、公演の中止を告げた。場内は騒然となる。


菜々美は、本能的に何かが起きたことを察知し、関係者に紛れて楽屋へと急いだ。

楽屋の奥、宗一郎の私室の前に人だかりができていた。扉の隙間から漏れ聞こえるのは、すすり泣きと、警察を呼ぶ声。


「宗一郎さんっ!しっかり!」

弟子の悲痛な叫びが響く。

やがて到着した警察官が人垣を分け、中へと入っていく。菜々美も、ジャーナリストとしての使命感から、制止を振り切って部屋の入り口まで近づいた。


息を呑む光景だった。

観世宗一郎は、楽屋の鏡の前に座ったまま、ぐったりと首を垂れていた。その顔には、能面が被せられていた。しかし、それは舞台で使うような華やかなものではなく、まるで冥府からの使いのような、不気味なまでに黒く、深い皺が刻まれた尉(じょう)の面だった。そして、彼の手には、白地に金の模様が施された舞扇が握られていたが、その先端は、まるで血で濡れたかのように、鮮やかな赤に染まっていた。


「まただ…」

菜々美の脳裏に、綾小路雅山の死の光景が蘇る。現場に残された象徴的な品々。これは偶然ではない。明らかに、同一犯による連続殺人だ。


第二章:繋がる過去、揺れる証言


京都府警捜査一課の葛城警部が、険しい表情で現場に到着した。

「佐藤さん、またあんたか…どうやら、あんたは事件を呼び寄せる何かを持ってるらしいな」

皮肉めいた口調だが、その目には焦りの色が浮かんでいた。

「第二の事件だ。最初の錦染苑の件と手口が酷似している。被害者の顔に何かを被せ、象徴的な小物を残す…これは、我々への挑戦状か、それとも何かの儀式か」


宗一郎の死因は、後頭部を鈍器のようなもので強打されたことによる脳挫傷と見られた。黒い尉の面は、彼が死んだ後に被せられたものらしかった。そして、血染めに見えた扇の先端は、実は赤い染料で塗られていたことが判明する。

「赤い染料…友禅で使うようなものか?」

葛城の問いに、鑑識官は「成分を分析中ですが、錦染苑で使われていたものとは異なる可能性が高いです」と答えた。


菜々美は、独自に観世宗一郎と綾小路雅山の接点を洗い始めた。二人は京都の伝統文化を担う者同士、どこかで繋がりがあってもおかしくない。

取材を進める中で、観世宗一郎の父であり、先代のシテ方であった観世宗厳(かんぜ そうげん)と、綾小路雅山との間に、過去、あるトラブルがあったという情報を掴んだ。

「あれは、もう十年以上前の話ですがね…」

古くから観世家に出入りしているという呉服屋の主人が、声を潜めて語った。

「宗厳先生が、ある新作能のために、雅山先生に特別な装束の制作を依頼されたんです。それは見事なものでしたが、そのデザインの権利というか、着想の元になった古い裂(きれ)の解釈を巡って、お二人の間で意見が対立し、かなり険悪な雰囲気になったと聞いています。結局、その新作能は一度きりの上演となり、装束もどこかに仕舞い込まれたとか…」


才能ある者同士のプライドの衝突。それは、時に根深い確執を生む。

菜々美は、綾小路香織にもこの件について尋ねてみた。

「父と、観世宗厳先生の間にですか…? 父はあまり過去のことを話さない人でしたから、詳しくは…」

しかし、香織は何かを思い出したように、ハッとした表情を見せた。

「そういえば、父の書斎を整理していた時、古い手紙の束を見つけたんです。その中に、観世宗厳先生からのものと思われる、少し厳しい口調の手紙が数通混じっていました。何かの作品のことで、父のやり方を非難するような内容だったと記憶しています」

香織は、その手紙を警察に提出したという。


一方、葛城警部は、錦染苑の事件で目撃された謎の青年、橘蒼太が、この能楽堂の周辺でも目撃されていたという情報を得る。

「蒼太は、能にも詳しかったという話だ。学生時代、観世流の謡や仕舞を習っていた時期もあるらしい」

葛城は、橘蒼太が二つの事件に関与している可能性を強く疑い始めていた。


第三章:黒き面の意味と秘められた怨念


菜々美は、京都の能楽研究の第一人者である老教授を訪ね、黒い尉の面と血染めの扇について尋ねた。

「黒い尉の面…ですか。通常、尉の面は神聖さや老賢を表しますが、黒い尉となると、少し意味合いが変わってきますな」

老教授は、古い文献を紐解きながら説明した。

「演目によっては、無念の死を遂げた者の亡霊や、深い恨みを抱えた人物を象徴することがあります。あるいは、何かを告発しようとする、声なき声の代弁者として用いられることも…」

そして、血染めの扇については、

「扇は舞の重要な道具ですが、それが血で染まっているというのは、不吉な出来事や、悲劇的な結末を暗示しているのかもしれません。特定の演目で、そのような演出がなされることも稀にあります」


「声なき声の代弁者…告発…」

菜々美は、その言葉に強く引き付けられた。犯人は、この黒い面と扇を通して、何かを訴えようとしているのではないか。


綾小路香織は、父の遺品の中から、さらに古い日記を発見していた。そこには、若き日の雅山の苦悩や葛藤、そして、誰かに対する深い罪悪感のようなものが断片的に記されていた。

「…彼の才能を、私は正当に評価していただろうか。いや、むしろ、その輝きを恐れていたのかもしれない。いつか、この罪が私に返ってくる日が来るのだろうか…」

日記の日付は、ちょうど観世宗厳とのトラブルがあったとされる時期と重なっていた。


「父は、誰かの才能を…踏みにじったとでも言うのでしょうか…」

香織の声は震えていた。


その夜、菜々美のもとに葛城警部から連絡が入った。

「橘蒼太と思われる男が、京都市内の古美術店に出入りしているとの情報が入った。店主は古都儀兵衛(こと ぎへえ)。少々悪名高い男だ。何か関係があるかもしれん」


古都儀兵衛。その名は、菜々美も聞き覚えがあった。才能ある若手作家の作品を安く買い叩き、価値を吊り上げて転売する、やり手の古美術商。そして、時に贋作にも手を染めているという黒い噂も絶えない人物だ。


橘蒼太と古都儀兵衛。そして、綾小路雅山と観世宗一郎。

点と点が、徐々に線で結ばれようとしていた。しかし、その線が描き出す模様は、あまりにも複雑で、禍々しいもののように思えた。


「犯人の狙いは、単なる復讐だけではないのかもしれない…」

菜々美は呟いた。

「伝統という美しい仮面の下で、才能が搾取され、夢が奪われた者たちの、声なき声。それを、犯人は代弁しようとしているのでは…」


次の犠牲者は誰なのか。そして、犯人が伝えようとしているメッセージの本当の意味とは何か。

京都の夜は深く、能舞台の闇のように、真実を容易には見せてくれなかった。


(つづく)

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