11日目③


(13:00〜16:30)


交番に戻った私は、椅子に腰を下ろし、ふうっと息を吐いた。

真由は隣で、クリップボードを手に書類整理をしている。

カタカタとキーを叩く音が、涼しいエアコンの風に混じって耳に心地よい。


ふと視線を落とすと、制服の袖口から覗く白い包帯が目に入った。

左腕にぐるぐると巻かれたそれは、まだほんのり熱を帯びているような気がする。


そっと、指先でなぞった。


あのとき——

咄嗟に、子どもをかばって飛び出した。

身体が勝手に動いていた。


痛みも、恐怖も、後からだった。


あの瞬間、ただ「守りたい」と思った。

目の前にいる、小さな命を。


「……ちゃんと、守れたんだよね」


ぽつりと、唇からこぼれた独り言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

包帯は、痛みの証じゃない。


私が選んだ行動の——

小さな、でも確かな証。


「理彩ちゃん、無理しないでね」


隣で書類に目を落としていた真由が、ふいに顔を上げた。

心配そうに覗き込む瞳が、柔らかく光る。


「うん。大丈夫」


私は笑って応えた。

大丈夫。

——もう、迷わない。


そのとき、交番のドアがバタン!と開いた。

小学生くらいの男の子が、真っ赤な顔で飛び込んでくる。


「おまわりさん! 公園のトイレで、おじいちゃんが倒れてる!」


一瞬で、空気が張りつめた。


「ありがとう、教えてくれて。すぐ行くからね!」


私は素早く立ち上がり、真由とアイコンタクトを交わす。

二人で駆け出した。

灼けるようなアスファルトを蹴って。



現場の公園に着くと、すぐに人だかりが見えた。

真夏の午後、容赦ない太陽に照らされ、蝉たちがじりじりと鳴いている。


トイレの前、日陰に倒れ込んだ老人が、浅い呼吸を繰り返していた。

顔は真っ赤で、額には汗がびっしょりと浮いている。


——熱中症だ!


「真由、水! それと、救急要請お願い!」


「了解!」


声を張り上げると、真由がすぐに走り出す。


私はしゃがみ込み、老人の額に手を添えた。

火照った肌が、触れた指先にびりびりと熱を伝えてくる。


「大丈夫ですか? もうすぐ助けが来ますからね」


優しく声をかけながら、持っていたハンカチを取り出し、汗をぬぐった。

小さな水筒を持っていた小学生に頼んで、冷たい水を少しだけ口元に含ませる。


「無理に飲もうとしなくていいですよ。ゆっくり……」


周囲に集まった人たちも、不安そうに見守っていた。

私は顔を上げて、できるだけ落ち着いた声で呼びかけた。


「どなたか、日陰を作れるものを持っていませんか? タオルでも、傘でも!」


「はい、これ!」


「これ使ってください!」


次々と差し出されるタオルや折り畳み傘。

それらを手際よく組み合わせて、老人に影を作る。


ほどなくして、サイレンの音が近づいてきた。

救急車だ。


真由が手を振りながら、救急隊員に状況を説明する。


「熱中症の疑い! 意識あり、発汗多量、体温高め!」


連携は、完璧だった。

私は老人を担架に乗せるのを手伝い、救急車のドアが閉まるまで見送った。


「よし……」


ほっと息をついた瞬間、周囲から拍手が起こった。


「すごい……」


「お姉さん、かっこよかったよ!」


小学生が、ぱあっと顔を輝かせて言った。


お姉さん——

自然な、その呼び名が、胸にあたたかく降り積もる。


「ありがとうね。君がすぐ知らせてくれたおかげだよ」


頭をなでると、男の子は恥ずかしそうに笑った。


背後からも声がかかる。


「おまわりさん、助かりました!」


「やっぱり頼りになるわねぇ!」


たくさんの視線が、私を「当たり前に女性の警察官」として見てくれている。

誰も、性別を意識しない。

誰も、過去を問わない。


——私自身も。


腕に残る包帯を、そっと見つめる。


——私は、誰かを守った。

この手で、今も誰かを守れている。


迷う時間は、もう、終わりにしよう。


私は、私の意志で“理彩”を生きている。

誰に命じられたわけじゃない。

誰に選ばされたわけでもない。


この心で。

この行動で。

私は、私を選び続けるんだ。


「……よしっ!」


小さく自分に気合いを入れると、横で真由が「お疲れさま!」と笑った。


「いや〜、やっぱ理彩ちゃん頼りになるわー!」


「そんな、大げさだって」


「でもほんとにさ、私、今日めっちゃ誇らしかったよ。理彩ちゃんと一緒に現場にいられて」


真由の言葉が、胸に優しく沁みた。


私たちは顔を見合わせて、同時にくすっと笑った。

夏の空は、まだ青く高い。

蝉の声が、遠くでしゃわしゃわと鳴いている。


私は、今——

この世界に、ちゃんと生きている。


もう、迷わない。


私は私だ。

選ぶのは、いつだって、私自身なんだ。


そう思いながら、私はゆっくりと、空を仰いだ。


雲ひとつない、澄み渡る、真夏の空だった。

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