5日目③

(16:30〜19:30)


夕方の光が、カーテン越しに部屋をやさしく染めていた。

オフホワイトのカットソーが肌にふわりと馴染み、黒いレースのスカートの裾を指で軽くつまむ。


ベッドに腰をかけたまま、私はゆっくりと視線を巡らせた。

どこか落ち着かなくて、それでもどこか安心できるこの空間。


クローゼットの扉をもう一度開けてみる。

さっき目にしたセーラー服はそのままに、脇に積まれた収納ケースの取っ手に手をかけた。


カチリ、と小さな音。

引き出しを引くと、そこに色あせたアルバムが数冊、ぎゅうぎゅうに詰められていた。


——まるで、見つけられるのを待っていたみたいに。


アルバムを一冊、そっと取り出す。

表紙には金色の文字で「理彩の記録」とあった。

行書体の力強いフォントが、母の趣味を思わせる。


心臓が、どくん、と脈打った。


私はページをめくった。

パリッと乾いた紙の感触。


写真の角が少し丸くなっていて、指先にやさしい。


写っていたのは、赤ん坊の私。

——いや、赤ん坊の「理彩」。


母に抱かれ、ふにゃふにゃの笑顔で眠っている私。

浴衣姿で祖父母と写る七五三の写真。

ランドセルを背負って玄関の前に立つ小さな女の子。


どれも、誰がどう見ても「理彩」の成長記録だった。

髪を伸ばし、ワンピースを着て、年齢を重ねていくひとりの少女。


……なのに。


私は、いくつかの写真の風景に、見覚えがあった。

カメラの角度、光の入り方、背景の自転車の位置。

たとえば、小学校の入学式の写真。

隣に父が立ち、母が花束を持っている構図。


(……この写真……知ってる……)


けれど、私の記憶の中でその構図にいるのは、女の子じゃないはずだった。

短髪の男の子で、紺色のブレザーを着ていたはず。

母の花束は少し傾いていて、父はネクタイをまっすぐに締めていた——


けれど、ここに写っているのは、私。

……女の子の私だった。


ページをめくる手が、ふるふると震えているのがわかった。

それでも止められなくて、何かを確かめるように私はページをめくり続けた。


次に手に取ったのは、小学校の卒業アルバム。

アルバムのしまい場所も、探すまでもなかった。

身体が、勝手に動いていた。


クラスの個人写真のページ。

そこにいたのは、黒髪で前髪を整えた、笑顔の女の子。

名前もはっきり「山城 理彩」と記されている。


彼女は私に、よく似ていた。

いや、私だった。どこからどう見ても。


ページをめくるたび、見慣れた風景が次々と現れる。

校舎の廊下、グラウンド、理科室のガラス棚——


確かに見た記憶がある。

だけどそれは……「理史」の記憶のはずだった。


中学校、高校と進むにつれて、写真の中の彼女は少しずつ大人びていく。

笑顔の奥に揺れるような陰りや、自信のなさや、でもどこかにある芯の強さ。


(私……こんな表情、してたっけ……)


理史の記憶の中にはない。

けれど、その眼差しに私はたしかに見覚えがあった。


胸の奥で、記憶と感情が複雑に絡まり合っていく。


理史としての「思い出」は、どこか霞がかってきていた。

顔の輪郭や声は思い出せても、それが現実だったか、夢だったか曖昧になっていく。


だけど、この写真たちは、確かに「私」を記録していた。

赤ちゃんから、学生時代を経て、今に至るまで。


私はアルバムをそっと閉じた。

手の中で、それが「自分の人生の記録」であるかのような重みを感じながら。


懐かしさ、という感情がふいに胸を満たす。

それは、理史としての懐かしさではない。

でも理彩としても、思い出したはずのない記憶のはず。


私はいったい、どちらなのだろう。


ドアの向こうから、階下の母の声が聞こえた。


「理彩ー、ごはんできたわよー!」


「……うん、今行くー!」


声を返しながら、鏡の前を通り過ぎる。

そこに映った私は、当然のように「山城理彩」で——

その姿に、私はもはや、何の違和感も覚えていなかった。



夕食は、和やかだった。

テーブルには母の作った肉じゃがと冷や奴、そして夏野菜の天ぷら。


「理彩、ちゃんと食べてる? なんか前より痩せたんじゃない?」


母の言葉に、私は苦笑した。


「んー、警察の仕事って意外と動くから……食べてるけど、すぐエネルギー使っちゃうんだよね」


「そうか、あんまり無理するなよ。夜勤もあるんだろ?」


父が箸を止めて、真剣な目で言った。

その眼差しに、私は自然と背筋を伸ばしてうなずいた。


「うん、大丈夫。ちゃんと休んでるし、同期の真由も支えてくれるし」


「永瀬さんでしょ? いい子よね、何度か会ったけど。理彩と気が合いそうって思ったの、当たったわ」


「うん……そうかも。あの子がいると安心するっていうか……」


自然と笑みがこぼれた。

不思議なことに、その名前を口にするたび、心の中がふわっとあたたかくなる。


その笑顔を見た母が、ふっと目を細めた。


「いい顔するようになったわね……前よりもずっと」


「え?」


「昔は、どこか力が入ってるような顔してたのよ。最近は、肩の力が抜けて、なんだか素直になったっていうか……」


その言葉に、私は返す言葉を失った。

母の目に映る私は、最初から「理彩」で——

そして、今の私を「変化」と感じている。


(私は……この家の「娘」として、ずっと生きてきた……?)


胸の奥に、何かがじんわりと染み込んでいく。

戸惑いと安堵と、よくわからない感情のしずくが、心の底に静かに落ちていく。


「……ありがとう」


私はそれだけを言って、箸を置いた。

心のどこかで、ようやく一歩、何かを受け入れ始めたような気がした。


——この名前も、この声も、この写真も。

たとえ「与えられたもの」だったとしても。


それを「自分のものだ」と感じてしまう今の私は、

やっぱり、どこまでいっても「山城理彩」だった。


(……でも、それって悪いことじゃないのかもしれない)


そう思えた瞬間、ふいに部屋の外から、涼やかな風がカーテンを揺らした。


まるで、「それでいいよ」と囁くように。

そしてそれは、どこか神様の声にも似ている気がした。

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