4日目③


(21:00〜2:00)


交番の夜は、驚くほど静かだった。


まるで世界が息を潜めているかのように、窓の外には人の気配がない。

微かに響くのは、虫の声と、カチリ、カチリと刻まれる壁時計の針の音だけ。


私は椅子に腰かけ、背もたれに身を預けたまま、ぼんやりと夜の帳を見つめていた。


──夜の街には、色がない。


照明の届かない路地は闇に沈み、ビルの影が重なって、どこまでも静かで、深くて、冷たい。

夏なのに、少しだけ肌寒いような気さえした。


(……誰も、来ないな)


最後に住民が道を尋ねに来たのは、もう1時間も前のことだ。

日付が変わるこの時間帯は、通報もほとんどない。

そういう意味では、いちばん「自分」と向き合わざるを得ない時間でもある。


私は机の上に置いてあった一冊のノートを手に取った。


『勤務日誌:山城理彩』


……さっき読んだときの余韻が、まだ胸の奥に残っていた。


ページをめくる指先は、いつの間にか、自分でも信じられないくらい丁寧になっている。

まるで、何か神聖なものを扱うように。


(この日誌に綴られているのは、他人の人生……なのか?)


そう思うのに、読むたびに不思議と胸が熱くなる。


「駅前の放置自転車を整理していたら、小学生が『おまわりさん、ありがとう』って言ってくれた。誰かの目に映る“警察官”でいたいと思った。」


「酔っ払いに罵声を浴びせられた夜。怖くて泣きたくなったけど、先輩に『よく頑張ったね』って言われて、救われた。」


ページのひとつひとつに、傷跡のような出来事と、それでもなお前を向こうとする想いが刻まれている。


(こんな記録が、本当に“私以外の誰か”のものなんだろうか……?)


手帳を胸に抱いたまま、私は天井を仰いだ。


(それとも——これは、本当は私自身の、過去なんじゃないか?)


心の奥から、じわじわと、得体の知れないものが湧き上がってくる。


違うはずだ。

私は「山城理史」だった。


男で、警察官で、交番勤務を真面目にこなしていた。

誰にでも平等に接し、困っている人を放っておけない性格だった。


……そういう人間だった、はずだ。


でも。


この「理彩」の日誌を読むたびに、理史として積み上げてきたはずの記憶と、どこか輪郭が重なっていくような気がする。


(性別も、名前も、過去の記録すら変えられて……それでも、この“想い”だけは、なぜこんなにも共鳴するんだろう)


まるで、自分の心の奥底に、理彩の魂がずっと宿っていたかのような、不思議な感覚。


……そのときだった。


「——“真実の自分”は、姿や記憶ではなく、“意志”の中にある」


——あの“声”が、また聞こえた。


神の声。

冷たくも優しく、そして絶対的な響きを持つ声。


思わず背筋が震えた。

全身の毛穴がふっと開いて、冷たい汗が首筋を伝った。


(姿や記憶ではなく……意志?)


(私の“意志”……?)


夜の静寂が、耳の奥を圧迫する。


カチ、カチ、という時計の音が、妙に鋭く聞こえる。

遠くでパトカーのサイレンが一瞬だけ鳴って、すぐに遠ざかっていった。


制服の胸元に手を当てる。

……そこに、確かに、鼓動がある。


震えていた。

だけど、それは恐怖だけじゃない。

胸の奥で、何かが強く、確かに脈打っている。


(私が警察官でいたいと思うのは……記憶のせいじゃない)


理史だった頃から、私は、困っている人を見ると放っておけなかった。

泥酔した人に肩を貸し、泣いている子どもに膝をつき、理不尽な暴力に立ち向かう勇気を持っていた。


それは、今も変わらない。

理彩としての私もまた、誰かを守りたいと願っている。


——それは、「同じ意志」だ。


だから私は、理彩の日誌を読んで胸が熱くなる。

涙がにじむ。

共鳴する。

思い出す。


……いや、違う。

感じる。



記憶じゃない。

共通する「志」が、私の中に脈打っている。


でも——


「……忘れていく気がするんだよ」


ふいに、口をついて言葉が漏れた。


誰に向けたものでもない、独り言だった。


「理史の記憶も、声も、考え方も……少しずつ、遠ざかっていく」


涙がこぼれそうになる。


それが怖いのだ。

自分が自分でなくなっていく恐怖。


何か大切なものを、戻れない場所へ置き去りにしてしまうような感覚。


「でも……それって、本当に“喪失”なんだろうか」


そう問いかけたのは、自分自身だった。


失っていくのではなく、重なっていくのかもしれない。


山城理史の生き方と、山城理彩の想いが、少しずつ一つになって——


私は、私になっていく。


「……ふふっ」


夜の静けさの中で、小さく笑ってしまった。


ガラス窓に映る自分の顔は、確かに「女性」だった。

だけど、その瞳の奥には、まだあの頃の意志がちゃんと息づいている。


(理史としての私も、理彩としての私も……どちらも、ちゃんと「私」なんだ)


私はまた日誌を開き、ページの隙間に小さなメモを挟んだ。


そこにボールペンで、ひとことだけ書いた。


「私は、誰かを守る人間でありたい」


それが、私の「意志」だから。


——そして、夜はまだ、続いていく。


空は群青を越えて、濃紺へ。

虫の声すら途絶えた窓の外に、星がひとつだけ、滲んでいた。

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