2日目②


(7:30〜8:30頃)


朝の空気は、昨日よりも幾分熱を帯びていた。

駅までの道のりを歩きながら、私は周囲の視線に、妙に神経を尖らせていた。


シャツの襟元に汗が滲む。

スラックスの内側を伝う空気が、これまでとはまるで違う感触だった。

風は、身体の線をなぞるように動いていく。

私はそれに対して、過剰なほど敏感になっていた。


何人もの人とすれ違う。

男たちの視線を、どこか肌が感じ取る。

正面からは見ていない。


けれど、わかる。

まるで、背中に目があるかのように。


——見られてる。

「女」として。


心臓の音が、妙に高く、早くなる。

自意識過剰かもしれない。

でも、それでも。


私は今、通勤ラッシュの雑踏の中で「女の身体である自分」として、どう見られているのかを、頭のどこかで計算していた。


電車に乗る。

吊革を掴む手が細くて、白くて、頼りない。

向かいの窓ガラスに映った自分は、見知らぬ女性そのもので——


なのに、そこに映る表情だけは、どこか固かった。


「……ふぅ」


小さく吐いた息を、隣の女性が一瞬だけ振り返った。

私は目を逸らし、窓の外に視線をやる。

夏の朝陽に照らされたビル群が、まだ眠気を引きずったように光っていた。


警察署の建物が見えたとき、私は正直、ほっとした。

けれど同時に、胃の奥がきゅうっと重たくなる。


——ここが、私の職場。

理史としてじゃない。「理彩」としての、勤務先。


「おはよう、理彩ちゃん!」


建物の入り口で、声をかけられた。

振り返ると、私と同期の女性、永瀬真由が、笑顔で手を振っていた。


「あ……お、おはよう」


咄嗟に、笑顔を返した。

声が自然に高く出る。

息の抜け方も、昨日よりずっと「女らしい」。

自分で自分の反応に驚きながら、私は真由と並んで歩き出す。


「今日、けっこう暑いね〜。湿気で髪、爆発しちゃって……」


「あ、うん、そうだね……」


会話は他愛ない。

けれど、その「自然さ」に、逆に不安が募る。


真由は、疑いの目ひとつ向けてこない。

まるで、昨日までずっと「理彩」としてここにいたことが当たり前だとでもいうように。


——私は、本当にここにいた人間なんだろうか。


胸の奥が、きゅっと痛む。


更衣室の前で、無意識に足が止まる。

ドアの横に貼られたプレートには、はっきりと「女子更衣室」と書かれている。

理史のころは、当然ながら立ち入ったことなどない場所。


「行こっか」と真由に肩を叩かれ、私は小さく頷いた。


ドアの向こうは、柔らかな香りに包まれていた。

シャンプーや柔軟剤、化粧品、それにほんの少しの汗の匂い。

女たちの生活が染みついた空気だった。


「お先〜」

「あ、理彩ちゃんおはよ〜」

「おはようございます〜」

「昨日のドラマ見た?」


軽やかな声が飛び交い、笑いがこぼれる。

それを聞いていると、自分だけがどこか異物のように思えてくる。


ロッカーの列に沿って歩いていくと、「山城」と書かれたロッカーを見つけた。

鍵はかかっていない。

開けると、中には女性用の制服が掛けられていた。


ネイビーのシャツと、ピタッとしたシルエットのパンツ。

胸の位置には警察手帳を差すポケット。

それらすべてが、「女性用」として完璧に用意されている。


「……あたりまえ、みたいに……」


呟きそうになって、口を噤む。


真由が、隣でシャツを脱いでいる。

視界の端に、ブラが見える。

私は慌てて視線を逸らし、自分の着替えに集中しようとした。


けれど、ブラウスのボタンを外してシャツを脱ぐだけで、身体のあちこちが主張してくる。

ブラの下で揺れる胸。

スラックスを脱いだ瞬間、ヒップを包む布地のぴたっとした感触。

女性用の下着は、どうしてこんなにも「身体の輪郭」を意識させるのか。


「……ふぅ」


制服に腕を通すと、シャツがすっと身体に沿った。

サイズはぴったりで、もはや驚きもしない。

まるでずっと着慣れていたかのように、自然にボタンを留めていく。


「理彩ちゃん、今日なんか髪型いい感じだね〜。セットした?」


「え、あ……ちょっとだけ……かな」


「へー、やっぱ女子力高いわぁ。見習わなきゃ!」


そう言って笑う真由に、私は引き攣った笑みを返す。

でも心の内側は、ざらりと乾いた砂を噛むような違和感でいっぱいだった。


——これは、私が「演じている」理彩。

本当の私は、山城理史で……。


でも、誰もそれを知らない。

誰も疑わない。

私だけが、この現実に取り残されている。


制服を整え、ロッカーの扉を閉じた。

小さな鏡に映るのは、身だしなみを整えた「女性警察官」だった。


「行こっか、交番まで一緒に」


真由の声に、私は再び笑顔を作る。


「うん、行こう」


この身体、この顔、この声で、今日という一日を生きる。

それが、どれほど不自然であっても。


私はもう、歩き出してしまったのだから——

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