第7話 隣国の皇子
荒れ果てた国境を越え、アルフォンソは急ぎ馬を走らせた。風に舞う砂塵、乾いた大地――すべてが彼の背負う運命を物語っていた。
ようやくリリアナの領地に足を踏み入れた瞬間、世界が一変した。青々とした草原、透き通った空気、穏やかに流れる水の音。彼の目は、その違いに驚きながらも、ただ一つの存在を探していた。
そして、庭の奥――彼はリリアナを見つける。
光を浴びた彼女の姿は、まるでこの土地を象徴するかのように穏やかで美しかった。柔らかく風に揺れる髪、優しく花を撫でる手。その一瞬、彼の胸に熱いものが込み上げる。
「……リリアナ?」
思わず名前を呼ぶと、リリアナは驚いたように顔を上げる。アルフォンソの姿を目にしたその瞳は、驚きと警戒の色を帯びていた。
「……どなた ?」
アルフォンソは庭の奥にいるリリアナを見つけ、思わず足を止めた。豊かな草木に囲まれた彼女は、まるでこの地の恵みそのもののようだった。風に揺れる髪、慎ましくも優雅な姿――彼の胸の奥で何かが熱を帯びる。しかし、その思いを悟られぬように、深く息を吸い込む。
「あなたの力を貸してほしい」アルフォンソは静かに言った。
アルフォンソは黒髪に金色の瞳をもつ美丈夫だった。
黒曜石のような漆黒の髪は、陽の光を受けて淡く輝き、肩口にかかる柔らかな波となっていた。その深い色は、彼の冷静な知性と隠された情熱を物語るかのようだ。
黒髪というと隣国には黒髪が多い。
リリアナは彼の言葉に驚きながらも、すぐに真剣な眼差しを向ける。彼女は知っていた。隣国が魔物との戦いで荒れ果て、人々が苦しんでいることを。しかし、婚約を破棄されて以来、自分が誰かの役に立てるとは思っていなかった。
「どうして私なのですか?」彼女は問いかける。
アルフォンソは視線を落とし、一瞬だけ言葉を選ぶ。彼女への思いを悟られぬよう、冷静に――しかし、誠実に答えなければならない。
アルフォンソの言葉に、リリアナは静かに息をのむ。彼の瞳に映るもの――それはただの頼みではなかった。
そこには、疲弊した国を救いたいという強い願いと、彼自身の使命感が宿っていた。
「魔物の襲撃によって、我が国の大地は荒れ果て、水は濁り、人々は疲れ果てています。」アルフォンソは、拳を握りしめる。
「あなたの力があれば……ともに協力すれば、必ず希望を取り戻せる」
リリアナは庭の花をそっと撫でる。豊かな大地がどれほどの恩恵をもたらすか、彼女は誰よりも理解していた。
アルフォンソは、彼女の微細な変化を感じ取った。沈黙の中にある戸惑いと苦悩――彼はそれが何なのかは分からないながらも、彼女の心の奥に深い傷があることを悟る。
「……あなたを困らせるつもりはない」彼は静かに言う。
「ただ、私の国を救いたい」
リリアナはゆっくりと息を整え、再び彼に視線を向ける。その瞳にはまだ迷いがある。しかし、彼の言葉の奥にある必死の思いは、嘘偽りのないものに思えた
アルフォンソは静かに口を開いた。
「私はアスガード帝国の皇子、アルフォンソ」
その言葉が庭に響いた瞬間、リリアナの表情がわずかに変わった。彼女は驚きと警戒を含んだ視線を向け、一瞬、過去の苦い記憶が脳裏をよぎる。
――王族。
かつて婚約を結んだはずの身分の者に裏切られたことを思い出し、指先に力が入る。しかし、目の前にいるアルフォンソは、ただの高貴な血を持つ男ではなかった。彼の瞳の奥には真剣さが宿り、国を救いたいという切実な願いが滲んでいた。
「どうして、私に?」リリアナの声は冷静だったが、その奥に隠された感情は複雑だった。
アルフォンソは一歩踏み出す。
「君の土地には、命を育む力がある。それを分けてもらえれば、私の国の人々を救える」
アルフォンソの言葉は、庭の静寂を切り裂くように響いた。
リリアナはじっと彼を見つめながら、心の奥で葛藤する。彼女の土地が持つ力――それは確かに、最近ではこの地を豊かに保ってきた。
リリアナは静かに膝をつき、柔らかく土に手をかざした。
すると、乾いていた土がゆっくりと湿り気を帯びていく。まるで長い眠りから覚めるように、地面が脈打ち、生命の息吹を取り戻していく。
アルフォンソは息をのむ。目の前の光景は信じがたいものだった。ひび割れていた地面が、彼女の力に導かれるように潤い、そこから若草が芽を出し始める。
風がそっと吹き抜け、庭はさらに輝きを増していく。土が育み始めた緑が広がり、その場にいる者の心まで温かくするようだった。
リリアナは目を閉じ、静かに言葉を紡ぐ。
「大地はすべてを覚えているわ。どれだけ傷ついても、こうして再び命を育むの」
アルフォンソは彼女の言葉に深く心を打たれる。彼女の力、それは単なる魔法ではない。――生命を繋ぐ、かけがえのない力だ。
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