ショートショート

林檎雨

幸福の薬

N氏は人々を幸せにする装置を発明した。 


それは、文字通り人を幸せにしてくれる。


注射器のような形をしていて、ボタンを押せば、使用者は10秒間だけ、理由もなく、心からの幸福に満たされる。


それは脳の構造と記憶の連結を読み取り、その人が感じうる“完璧な幸福”の神経活動を、人工的に再現する。


薬物のような依存性はなく、まさしく完璧。


何も変わらないのに、満ち足りる。

それだけの装置だった。


N氏はそれを「ユーホリカ」と名づけた。

一回使いきり。価格は安く、誰でも買えるようにした。


ユーホリカは予想外に売れた。

社会人、主婦、学生に至るまで、皆がその幸福を味わった。


N氏はその売り上げで莫大な資産を築いた。大豪邸に住み、毎日遊び呆けた。


しかし、服用後しばらくしてから精神に支障をきたした、うつ病を患った、などの報告が相次ぎ、ついには販売停止に追い込まれた。


N氏は根も葉もないその噂に憤慨したが、彼の資産は既に一生遊んで暮らしても余るほどまでになっていた。


彼は大変満足していた。


しばらくたったある日、N氏のもとにひとりの老人がやってきた。


「あなたの装置、使いましたよ」

そう言って、空のユーホリカをそっと机に置いた。


「どうでしたか」


N氏がたずねると、老人は静かに笑った。


「ありがたかったです」

「ほんの10秒でしたけど、ああ、これが本当の幸せってやつかって、やっと分かりました」


N氏は黙ってうなずいた。


老人は少しだけ目を細めて言った。


「……私は知ってしまったんです、本当の幸福を。そして、今まで私が“幸せ”だと思っていたものは、所詮あの程度のものだったということも。」


そう言って、立ち上がった。


N氏は引き留めなかった。

机の上に残った容器は、どこかぬくもりのあとのようなものを残していた。


その晩、N氏は手元のユーホリカをひとつ見つめた。

ボタンに指を乗せたが、そのまま引き出しにしまった。


「自分のは……もう少し、あとにしよう」

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ショートショート 林檎雨 @applerainy

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