その3
翌朝、孫式が東江楼へ歩いていくと、門の前に水鶴の姿があった。門番の海燕の右手を両手で触っている。海燕はにやけた顔をしていた。
「なるほど。ありがとうございます」
「いえいえ。こんなんでお役に立てたなら嬉しいですね」
孫式は近づいて朝の挨拶をする。
「何をしておられたのですか?」
「昨日、孫式が来る前に占い師に手を見てもらったの。だけど、わたしは他の人より左手の……この線が短いと言われたのよ。だからみんなの手と比べてみようと思って」
水鶴が左手を見せてくれた。左手の人差し指の下から手首へ続く曲線。言われてみると、短いかもしれない。孫式も比べてもらったが、やはり水鶴の方が短い。
「こんなことを気にしても仕方ないけれど、占い師の言葉は馬鹿にできないからね。月凛様もたまに見てもらっているとおっしゃっていたわ」
「線が短いだけで運命が変わったりするのでしょうか。あまり信じられませんが」
「お前のはっきり言うところ、好きよ。確かに、生まれつき決められた定めなどあるとは思いたくないわ。自分の力で道を切り開かないと」
「それでこそ水鶴様です」
「仲がよろしいですなあ」
海燕はまだにやけていた。
「自分は門を守るしか才がないもので、女性にはとんと縁がありません。水鶴様に触れられただけでもドキッとしてしまいます」
「あら、刺激が強かったかしら? 悪いことをしましたね」
「いえ、自分の手相でしたらいくらでもお見せしますので」
「そうね。また占い師のところに行った後は見比べさせてもらうかもね」
水鶴はそれで話を終わらせると、邸内に入っていった。孫式も続く。海燕は最後までだらしない表情を変えなかった。
☆
日が傾くと、空に薄く月が見えた。
「いい月夜になりそうだわ。さっそく月凛様のおっしゃった計画が実行できそうね」
水鶴は嬉しそうだ。
「江若様と白扇様、花悠様の三人が曹湖で月見舟をするというお話ですね」
「ええ。もうすぐ旦那さまもこちらに着くはずだから、夜宴のあとに舟が出せるはずよ」
孫式としても、邸内が険悪な雰囲気に包まれていると落ち着かない。仲直りできるならそれが一番だ。
「旦那さまがお帰りです」
雪羅が扉越しに声をかけてきた。すぐに離れ、他の部屋にも伝えて回っている。
「さ、行きましょう」
「夕食は入りますか? 葡萄は案外お腹に溜まるものです」
水鶴と孫式は、今日も関頼からもらった葡萄を食べていたのだった。たくさん届いたので数日分はあるという。
「暗殺者の胃袋を甘く見ないでほしいわね。食べようと思えばいくらでも食べられるの。はしたないから遠慮しているだけ」
暗殺者は大食いの修行までさせられるのか。孫式は内心で驚いた。
今は立派な第六夫人だというのに、水鶴はときおり平然と自分が暗殺者であることを口にする。仕事に誇りを持っていたのかもしれない。
……私には想像もつかない世界だけど……。
孫式は、水鶴と一緒に広間へ向かった。
今日の夜宴は水鶴が江若の隣に座る日だったため、孫式の隣の席は空いていた。
「旦那さま、今宵は見事な月が出ております。ぜひとも、白扇さんと花悠さんを連れて月見舟を出してくださいませ」
「ほう? 珍しいことを言うではないか」
月凛が切り出すと、白扇と花悠がギョッとした反応を見せた。
「奥様、突然なにをおっしゃるのです」
「そうです。なぜわたしたちが曹湖に出ないとならないのですか」
二人はすぐさま文句を言い出した。月凛は平然と受け止める。
「あのね、諍いを放ったままにしておくと東江楼が荒れてしまうの。あなたたちだって居心地の悪いままではいたくないでしょう。騙されたと思って舟に乗ってみなさい」
「俺は帰ってきたばかりで少しくたびれているのだがな……ま、せっかく暖かくなったし舟を出すのもいい。で、白扇と花悠は喧嘩しているのか?」
「はい、昨日のことですが」
月凛が手際よく説明すると、江若は腕を組んだ。
「白扇らしくもない。そんなことを気にするとは」
「ですから、ぜひ仲直りの機会を」
白扇は呆れた顔だ。
「もう、奥様は気づかいしすぎですわ」
「舟に乗ったらまた白扇さんに臭うと言われてしまいます」
「あら、私は気にならないわよ? 心配しすぎじゃない?」
花悠の隣に座っている青雅が後押しする。
退路を断たれた形になり、花悠はしぶしぶ同意した。
「ところで、鉱山には変わりなかったのですか?」
月凛が訊く。
「ああ、去年と同じように本格的な作業が始まっている。特に悪い変化はないし今年もたくさん掘れるだろう。それに、金を元手に始めた宿はどこも客が入っている。あちらの稼ぎもだいぶ大きくなってきたぞ。万事順調、俺の天下はまだまだ続くよ」
わっはっは、と江若は明るく笑った。どうやら東江楼もしばらくは安泰のようだ。ならば、問題になるのはやはり夫人たちの喧嘩である。
「今日は軽めに飲んで、久しぶりに曹湖へ出るか。楽しみだな」
花悠は白扇の様子を気にしている。その第二夫人は少しずつ表情が柔らかくなってきた。青雅が言う通り、仲直りのきっかけがほしかったのだ。
ただ、白扇は高い自尊心の持ち主だ。また余計なことを言って退けない状態に陥る危険もある。舟が出てしまえば他の者たちは関わることができないので江若だけが頼りだ。
……まあ、江若様なら上手くやってくれるだろう。
孫式は楽観的に考えていた。
「おい水鶴、飲みすぎではないか」
江若が声をかけた。隣の水鶴は会話に参加しておらず、さっきから杯をあおってばかりだった。孫式もそれが気になっていた。
「申し訳ありません。やはり喧嘩が起きてしまうと不安で……」
「うむ、気持ちはわかる。何かと年下にはとばっちりが来るものだからな。まあ安心しろ。三人で楽しく舟に乗ってくるさ」
「よろしくお願いいたします、旦那さま」
「おっ、酔っているな?」
水鶴は甘えた声を出して江若に寄りかかった。主人は嫌がるそぶりもなく面白そうに受け止めている。
「水鶴さんが心配することないじゃない。私が悪者みたい……」
白扇がつぶやくと、水鶴がすぐに否定した。
「そんなことはおもっておりません。ただ、仲直りしてほしいとは強くおもっております」
少しろれつが怪しい。
「はは、よほど気になっていたようだな」
「そうなのです。平和が一番でございます」
「いててて、こら、爪を立てるな」
「うふふ、旦那さま、好きですわ」
「まったく、困った奴だ。たまに酔うとすぐこれだからな」
江若は苦笑いして右手を振るった。手のひらに爪を立てられたらしい。いつになく酔っている水鶴を、月凛が穏やかな顔で見つめている。青雅や花悠はぽかんとしている。珍しいものを見た顔だ。
「水鶴、少し水を飲みなさい。旦那さまはこれから舟に乗るのです。あまり迷惑をかけないようにして」
「はい……」
雪羅が水の杯を水鶴に渡す。第六夫人はそれを一気にあおった。
今日は江若が希望したので牛の肉が出ている。みんなそれを上品に食べる。孫式も下品にならないよう気をつけながら口にした。横に水鶴がいないと、食べ方を注意してくれる人がいなくなるので恥をかくことが多い。
夕食はのんびりと進められた。江若は遠方の街から一日かけて帰ってきたところだから、いつもほど酒は飲まない。料理の減り方もゆっくりだった。
「ふう、少し飲みすぎてしまいました。ようやく頭が冴えてきた気がします」
水鶴が上衣の胸元を直しながら言った。口調が落ち着いている。
「やはり酔った時は水に限るな。後でよろけて転ぶなよ?」
「はい、よく気をつけます」
「よし、あと一杯飲んだら準備をするか。白扇、花悠、そのままの格好でいいぞ」
名指しされた二人は静かに頭を下げた。
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