月鶴楼殺人事件

雨地草太郎

第1話 月と毒(空墨(くうぼく)十四年 七月)

その1

 十日以上の時間をかけて、孫式そんしき東江楼とうこうろうへやってきた。


 ぎょう国の都に近いこの街は、彼の育った南の街に比べて圧倒的に華やかだ。

 高楼が立ち並び、行き交う人々は色とりどりの暁衣ぎょういを纏って歩いている。馬を引いて歩く商人、靴磨きの職人といった町民から、民家の陰にうずくまる浮浪者まで様々だ。


 その中でも、東江楼はひときわ目を惹く建物であった。

 向こう岸が遙か遠い曹湖そうこのほとりに建っており、東邸ひがしていの一部は水上に建てられている。


 全体的に赤色で彩られた建物は広い敷地の中にあり、そこには暁国きっての豪商、泰江若たいこうじゃくが暮らしている。


 孫式は東江楼からほど近い安宿に部屋を取り、馬を置くと、荷物を持って街路を歩いた。


 真夏の日中であった。ただ歩くだけでも汗が噴き出す。笠をかぶって日よけにしている町民の姿もあり、日陰には多くの子供の姿があった。


 東江楼は大通りに面しており、向かいには灯藍とうらんという大きな宿がある。江若は自宅に人を泊めない。必ず、自身が経営する灯藍に宿を取ってやる。


 だが、小間使いのように格の低い者は自費で宿を取らなければならない。

 孫式もその一人だ。彼はもともと捨て子であり、名前もなかった。拾ってくれたぎんという役人の家では、捨て子に決まった名前を与えるという慣習があるため、その中の一つである孫式を名乗っている。本当の名前は彼自身も知らない。


「お久しぶりでございます、銀家の孫式と申します」


 東江楼にたどり着くと、がっしりした門番に声をかける。


「おう、お前さんは水鶴すいかく様の家の者だったな。通れ」

「ありがとうございます」


 頭を下げて門をくぐる。門番の海燕かいえんは人の顔を覚えるのが得意だ。面倒な手続きがなくて孫式としてもありがたい。


 門を抜けて五段の石段を上がると、廊下は左右に分かれている。


 右の東邸は宴会に使われる広間や医療房いりょうぼうがあり、左の西邸にしていが居住区である。都の建物と違い、江若は後宮のような形を作らなかった。


 孫式は廊下を左に進む。突き当たりを右に折れると回廊になっており、六つの扉が視界に入る。一番奥には階段があり、江若の部屋がある二階へ続く。


 六つの部屋は壁同士がつながっていない。それぞれ箱のような部屋として独立しているため、隣室の音がまったく聞こえないという特徴を持つ。


「あら、孫式。今回は少し遅かったわね」


 階段付近に立っていた少女が気づいた。孫式と同じ十七というこの娘は友雪羅ゆうせつらといって東江楼の小間使いをしている。


「お前は銀色の髪が似合う」と江若に無茶を言われて染められた銀髪は今日も美しい。


「セーロが国境付近で暴れているので、便乗した賊が多いのです。そのため街道でも手荷物の確認などされまして」

「そうなのね。禁軍は何をやってるのかしら。あんな蛮族、さっさと鎮圧してほしいものだわ」

「水鶴様は?」

「お元気よ。声をかけるわね」


 来客はこの雪羅を通して、自分の主の部屋に案内してもらう。

 江若には六人の妻がいるのだ。もう部屋がいっぱいだからこれ以上は娶らないと言っているそうだが、その気になればいくらでも増築しそうである。

 孫式は雪羅のあとについて、右側一番手前の部屋にやってくる。


「水鶴様、孫式がやってまいりましたよ」

「入れてちょうだい」


 雪羅がうなずくので、孫式は「失礼いたします」と声をかけて戸を押し開けた。


 真正面に窓があり、その脇に四つ足の寝台、瓶の並んだ棚と、引き出しだらけの棚が置かれている。


「無事にたどり着けたようで何より」


 そして、窓際のイスに座っているのが、第六夫人の銀水鶴であった。二十二歳。猫のようにとらえどころのない目をした女は、漆黒の瞳で孫式を捉えている。しなやかな黒髪と、それを浮き上がらせるような水色と白を合わせた襦裙じゅくん。鶴が象られた金色の髪飾りを挿している。


「お久しぶりでございます、水鶴様。何か、お変わりはありませんか」

「何も変わらないわ。何かあった方がお前としては嬉しいでしょうけどね」

「そんな……。下手な報告を持って帰れば斗開とかい様が心配されます」

「お父様はわたしが何かやらかすことを恐れているんでしょう。そんなことがあったらお前もただでは済まないかもね」

「や、やはり私の目が行き届かなかったという責任になるのでしょうか」

「さあ、どうかしら。お父様の、罪状を作り上げる腕前は一級品だからねえ」


 孫式はぶるっと震えた。


「他の奥様方と諍いなどはございませんでしたか」

「ないわね。旦那さまは今のところ、平等に皆を呼んでいるわ。これが偏れば寵愛された者に嫌がらせがあるかもしれないけど、その心配はしなくてもよさそうよ」

「それを聞いて安心しました」


 孫式は背負ってきた木箱を置く。


「銀家から薬に使う材料をお持ちしました」


 水鶴は立ち上がり、孫式の持ってきた箱を開けた。毒薬に通じている水鶴は、月に一度訪問する孫式に薬の材料を持たせてくれと実家に頼んでいる。


「よしよし、ちょうど足りなくなっていた分がこれで潤うわね」

「また新しい薬の調合を試しておられるのですか?」

「そうよ。まあ、薬なら花悠かゆうさんの方が詳しいんでしょうけど、わたしはこれでも暗殺者として育てられた身。いざとなったら旦那さまを守れるのはわたしなのよ」


 水鶴は自信ありげに言う。第五夫人のちょう花悠は実家が薬屋であり、主に良薬の扱いに長けている。


「斗開様は、夜伽を嫌がって江若様に技をかけていないか心配しておられましたよ」

「そんなことするわけないでしょう。わたしはここでの生活を気に入っているの。自分から追い出されるような真似はしない」


 水鶴は、いきなり孫式の右手を取った。手の甲を優しく撫でられ、孫式の顔が赤くなる。


「わたしの指先は暗殺術のおかげでとても器用なのよ。あらゆる方法で旦那さまを歓ばせることができるわ。あなたも味わってみたい?」

「あ、あ……」


 孫式は真っ赤になった顔を逸らし、長く息を吐き出す。


「い、いけません。私のような小間使いに、このようなことをしては……」

「あら、あなたも毎月長旅で疲れているでしょう? ここと実家を往復するだけで一ヶ月が終わってしまうんだもの。ゆっくりできるのはここで三日、実家で三日というところかしら。それじゃあ、くたくたよね」

「い、いいのです。それが私の役目なのですから、不満に思ったことはありません」

「でも、癒してほしいでしょう?」

「ひっ」


 いつの間にか、水鶴の右手は孫式の首筋を撫でている。爪を当てる加減が絶妙で、簡単に鳥肌が立ってしまう。孫式はだらだら汗をかいていた。


「す、水鶴様には旦那さまがいらっしゃるのですから、おやめください……!」


 必死の思いで、孫式は水鶴から離れた。若き第六夫人は、行き場を失った右の指をひらひら動かしている。


「純情ねえ。お父様もあなたのそういうところを買っているのでしょうけど」


 水鶴が東江楼へ嫁いできて、まだ一年と経っていない。人とのつきあいが少ない娘であったから、馴染むのには苦労するものと思われた。その予想を裏切り、水鶴はすっかりこのお屋敷の一員として受け入れられている。それが、彼女の父である銀斗開には意外であったようだ。


 ――あれはやると決めたことを偏執的なまでにやり尽くす。あの性格では江若殿から山ほど文句を言われるかもしれぬ。


 そんな文句を斗開に届けたことは一度もない。

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