じゃあね、また明日。

むめい

じゃあね、また明日。

春の午後。

卒業式が終わったあとの校舎は、まるで人が抜けたあとみたいに静かだった。

開け放たれた教室の窓から、風が吹き抜ける。

淡い雲が流れて、桜はまだ蕾のまま、小さく揺れていた。


俺はゆっくりと、自分の教室に戻った。


黒板には「卒業おめでとう」と書かれたチョークの跡が残り、

机の列も半端に崩れていて、皆があわただしく通り過ぎた時間の名残だけがあった。


そして――


窓際の席。いつもと同じ、俺の前の席。

風にカーテンがゆらぎ、その奥に、彼女は座っていた。


「……律、来ると思った」


「お前も、だろ」


振り返った佐原美咲は、どこか懐かしい顔で笑った。

その笑顔に、俺は自然と息をのんだ。


幼稚園からずっと一緒だった。

通学路も、夏祭りも、日曜の昼も。

でも、高校に入ってから、少しずつ話すことが減っていった。

理由はなかった。ただ、沈黙が間に入り込むようになった。


 


「……卒業だね」


「うん」


「不思議な感じ。明日もここにいる気がして」


俺たちは並んで、教室を出た。

静かな廊下を歩いて、校舎の裏手へ。


そこは一年の春、ふたりで雨宿りをした場所だった。

あの日は急に降り出した雨に、傘もなくて、

俺は濡れた制服のまま彼女の隣に立っていた。


「覚えてる? あのとき」

「うん。お前、何も言わずにずっと空見てたよな」

「だって、律が隣にいたから、なんか言ったら壊れそうで」


風が吹いた。

その風に、なにか言いかけた言葉が混じって消えていった気がした。


 


「ねえ、律」


「ん?」


「わたし、中二のとき、自分で勝手に距離置いちゃってた」

「……知ってた」


「怖かったの。“幼なじみ”って言葉が、名前みたいになってたから。

それ以上になると、戻れなくなりそうで」


「俺も、ずっと何か言いたかったけど……

お前が離れていったの、見てるだけしかできなかった」


 


それが“好きだった”ってことだと、お互いにわかってた。

でも、もう言葉にはしなかった。


それを言ったら、終わってしまう気がして。

いや、終わるんじゃなくて、“別のもの”になってしまうのが怖かった。


今ここでようやく向き合えている、この絶妙な距離を、

どちらかが踏み越えたら壊れてしまうことを、わかっていたから。


 


「律は、どこ行くんだっけ?」


「地元。短大。近くにいる」


「そっか。私は東京。寮生活。……たぶん、しばらく帰れない」


「……元気でな」


「そっちも」


 


彼女は、ゆっくり鞄を肩にかけた。

もうこの時間は、ほんの少しずつ“終わっていく”だけだとわかっていた。


「じゃあね」


「……なあ」


「ん?」


「“また明日”って、言っていい?」


一瞬、美咲は驚いたように見えた。

でもすぐに、少しだけ寂しそうに笑った。


「……うん。じゃあね、また明日」


その言葉は、たぶん俺たちにとって、最後の“嘘”だった。


でもそれは、

本当のことよりも、大切だった。


 


きっとどこかで、

“あのとき付き合っていればよかったのに”と誰かに言われるかもしれない。

だけど俺たちは、あの瞬間だけは確かに隣にいた。

その記憶を壊さないために、手を伸ばさなかった。


 


──春の風が、彼女の髪をやさしく揺らしていた。

その姿が、最後まできれいだった。

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じゃあね、また明日。 むめい @Mumei7

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