本音が行き着く、その前に
森都私山(もりまち・しざん)
#1「日本で一番嫌われるラジオパーソナリティ」
「私は、日本で一番嫌われるラジオパーソナリティになります!」
彼女の甲高い声が、マイク越しにスタジオの空気を突き刺し、ディレクター卓にいる俺たちにも響き渡る。
福岡にある放送局「KBRエブリー放送」でラジオ部門の編成と番組クオリティを担当している俺、下土井渉(四十二歳)はディレクター卓越しにスタジオを見つめていた。スタジオの中で伊賀みどりは、小さな身体で真っ直ぐマイクに向かっていた。ヘッドフォンをつけたまま表情ひとつ変えず、そのひと言を放ってみせたのだ。
俺は咄嗟に隣の藤川ディレクターの表情を盗み見た。いつものようにニヤニヤ笑う藤川が見て取れたということは、つまり“マジで驚いてる”ってことだ。
KBRエブリー放送のラジオスタジオは、百道浜に面したビルの8階にある。防音ガラスの向こうには福岡の海が見える。陽の光が差し込んではこないが、午後の眩しさはビルの隙間からしっかり届いている。夏の風物詩・祇園山笠も終わり、本格的な夏が福岡にやってきた。
暑がりの俺は空調を二十度に設定してるけど、背中にじんわりと汗がにじんでいた。着ている黒いTシャツにも、うっすらとその汗が染みこんでいる。福岡に移住して四ヶ月。東京で放送作家としてキー局の報道・情報番組を主に手がけていた俺にとって、この場所はまだ馴染みがない。そんな馴染みの薄さも、この空気をより一層重くする。
仮の台本を使ったマイクテストの最中、みどりはまるでひとりのリスナーに話しかけるような口調で言葉を続けた。
「嫌われたいっていうのは、別にふざけて言ってるわけじゃないです。どうせ半年で終わるナイターオフの番組だし。だったら私は、思いっきり好き勝手やってやろうって思っただけです」
──ナイターオフ。プロ野球のシーズンが終わってラジオ局の夜の編成にぽっかり空きが出る時期。どの局でも“半年限定の実験枠”がこっそり生まれるのがこの季節だ。
「渉さん、アリっすねこれ」
藤川がぽつりと呟く。相変わらずニヤついたまま、ガラスの向こうにいる彼女を見ている。彼のこの言い方は8割が本心、残り2割が様子見だ。
だけど、今回はたぶん逆だ。
KBRエブリー放送に来て4ヶ月。彼の人となりはまだ完全にはわからないけど、この人間はおそらく“面白いもの”にだけ反応して生きてる。そういうタイプだと思っている。
藤川淳一(三十八歳)は癖のある番組ばかり担当してきた、いわば“放送事故スレスレ職人”みたいなディレクターだ。喋り手よりも先に“その人の癖”を嗅ぎ分けて、5秒後にどう転ぶかを読みながら常に笑っている。そんなやつだ。
藤川はミキサー卓に手を伸ばし、インカムの“STUDIO TALK”ボタンを軽く押した。
「じゃ、伊賀さん。一回、本番だと思ってやってみましょう。最初の入り、仮のやつでいいので台本どおりアタマから。ゆっくりで大丈夫でーす」
ブースの中でみどりが軽くうなずくのが見えた。緊張してるふうでもない。かといって気を抜いている感じでもない。ただ、スイッチが入ったような顔だった。ヘッドフォンを軽く押さえながら、彼女は静かに息を吸った。
藤川がすぐそばで音量を微調整する。目はスタジオから外さないまま、いつものニヤつきで口元だけが動いている。やがて、スタジオに“放送用の音”が流れた。ほんの短いジングルとみどりの声。
「──こんばんは。伊賀みどりです。今夜から半年だけ、この時間、あなたにお付き合いします」
その声はさっきよりも少しだけ落ち着いている。でもどこか、まだ誰かを試しているような響きがあった。彼女は台本を見ながら、きっちりと言葉を重ねていく。でも、ある一行で手元の紙を軽く放り出した。視線はマイクの先、誰もいないリスナーへと向かっていた。
「と言っても、たぶん私のこと誰も知らないですよね?」
少し笑う。その声はさっきよりも低いトーンで、どこか投げやりで、でも妙にリアルだった。
「元アイドルで、東京から地元に帰ってきて、いまは主に福岡のテレビ番組のリポーター。ラジオは正直、ほとんど聞いたことないです。なのに、なんかの縁でこうしてマイクの前に座ってるって、それだけでみんな不安じゃない?」
前室のスピーカー越しに、その一言一言が届いてくる。
「でもね私、もう“好かれよう”とか思って喋れないんですよ。何をどう言ったって好かれる人には好かれるし、嫌われる人には嫌われる。だったら、最初から嫌われてる前提で、喋ったほうが楽かなって思ったんすよ」
渉の中で、何かが引っかかる。さっきからずっと考えていた。この“声の感じ”。知ってるような、知らないような。なのに耳に残る。離れない。声は記憶に残る。記憶に残るということは「心に残っている」ということだ。いつどこで俺の心に刻まれた声だ…?
そうだ。高校時代、深夜に聴いてたラジオ番組。名前も顔も今ではすっかり忘れてしまったけど、お気に入りのアイドルがまるで俺にだけ本音をこぼしているかのように喋っていたあの時間。
あれが俺のラジオの原点だ。
今、みどりの“聞いたような言葉がなぜか“言葉”としては届いてこなかった。その口調も言葉の選び方も、どこか台本にない体温を帯びていた。「思ったんすよ」。語尾の「すよ」に、みどりの体温がグッと上がった気がした。
「だから“嫌われてもいい”って言ったのは、開き直りじゃないんです。せめて、自分の声くらい、自分で守んなきゃってね。そう思ったら、こうなってました。あれ…?みんな引いてます、もしかして?」
ふっと笑うその声がマイクを通って、空気に染みていく。
俺はもう一度、手元の資料に目を落とした。A4ペライチの簡易プロフィール。番組用に作られたから余白が多く、文章は妙にそっけない。
《伊賀みどり(いが・みどり)/28歳》
福岡市早良区出身。東京で活動していた元アイドル。
現在は福岡を拠点にテレビ番組のレポーターなどを担当。
──それだけなのに、文字の隙間から何かがはみ出してくる気がした。スタジオのスピーカーからは、まだ彼女の声が流れている。その響きが妙にリアルで、耳に張りついて離れない。
実際はこうだ。東京ではKND(神田)44というアイドルグループに所属。いわゆる“中堅どころ”で、歌やダンスよりも喋りで頭角を現していた。機転が利いてツッコミ役もこなせる。バラエティ番組では重宝されていた。
ある日、ぽろっと“匂わせ”が漏れた。SNSに出た、たった一枚の写真。背景に写ったマグカップ。ファンの間で検証が始まり、週刊誌に取り上げられ、彼女は活動を休止した。数ヶ月後、“卒業”の報が出た伊賀みどりは東京を離れ、福岡に戻った。どこにでもある話だ。でも、さっきの声には“どこにでもある”では済まされないものがあった。
あれから数年。みどりは現在、地元の芸能事務所「ワタプロ」に所属。テレビの情報番組でレポーターをやっているが、目立つ仕事ではない。彼女がいま、マイクの前にいる理由は書かれていない。けれど、それを探してこの場所に来たことだけは、なんとなく伝わってきた。
このプロフィールに書かれていることは、芸能界じゃまぁよくある話だ。アイドルがスキャンダルで炎上して、グループを抜ける。地元に戻って、細々とタレント活動を続ける。そのどれもが、珍しい話じゃない。
“よくある”“そこそこ”“消えていった誰か”
でも、それだけじゃさっきの声はここまで残らない。たった数分の仮テスト、数行分のセリフ。台本を放り出して喋った、あの“声の体温”がいまも耳の奥でゆっくりと反響している。
あれはただの“こじらせ”?開き直りに見せかけた演出? それとも、何かを捨ててでも、もう一度“届かせたい”って願いの声? 答えが出ないまま、俺はマイクに向かう伊賀みどりの姿を黙って見つめていた。その背中から伝わってくるものが、俺の中の何かをじわじわと動かしていた。
しばらくの沈黙。スタジオの時計を見て15時を少し回っていることだけ確認する。藤川はその沈黙を“保留”とでも受け取ったのか、ふっと息を吐いて笑った。
「やっぱ残しときましょうよ。この子、何があるか分かんないすよ」
俺は何も言わなかったけど、その言葉を否定する気にはならなかった。少し間を置いて、藤川がインカム越しに声をかける。
「はいOKでーす。伊賀さん、ありがとうございましたー」
みどりは小さくうなずいて、ヘッドフォンを外した。その動きもどこか“慣れてない”のが伝わってくるが、むしろ素直すぎて、こちらの呼吸がズレたような感覚だった。
ブースの扉がカチッという音を立てて開いた。少し間を置いてみどりが前室に戻ってきて、そのまま真っ直ぐ俺と藤川の前まで歩いてきた。近くで見ると、思っていたよりも背が低い。そして、目が強い。
「こんにちは。あの……ちょっと喋りすぎましたかね?」
完全にやる気スイッチを切った彼女はそう言って、小さく笑った。いまさら「こんにちは」もないだろうに。だけど本人は、自分が勝手に詰めた距離感の近さに気づいていない。俺はほんの一拍だけ間を置いて、静かに答えた。
「いや、よかったと思いますよ」
ほんの少しだけ驚いたような顔をしたみどり。眉を動かさず、目だけで何かを測っているような、そんな表情だった。
「マジっすか…。で、これって、通ったりするんすか?」
その言い方はどこか挑発的で、でも言葉の奥にうっすらと“願い”がにじんでいた。
藤川が、いつもの調子で笑う。
「いやー、俺はもう“即合格”って感じっすけどね?ねぇ、渉さん?」
みどりが、ちらっと俺の顔を見る。一瞬だけど、何も言わずに見られるだけで返事の言葉を選ぶのが妙に難しく感じる。俺はほんの少しだけ視線を外しながら「検討します」とだけ返した。正式な連絡は数日後、事務所を通して伝える。この場では何も告げない。それが業界の慣習だ。
みどりはペットボトルのキャップをしめながら、ふっと笑った。その笑顔には少しの疲れと、なにか“置いてきたもの”の気配が混じっていた。
「……東京じゃ、ずっと“感じよく”とか“当たり障りなく”とか、そういうのばっか気にしてました。怒られないように、引かれないように。嫌われないようにって、必死で喋ってました」
俺は何も言わなかった。というより、その言葉を途中で切らせたくなかった。
「でも、そうやって気を張ってたのに、あっけなく嫌われて、消えて。それで帰ってきたら、やっぱ“ああ、地元戻ったんだ”って空気、あるじゃないですか。なんかもう“諦めた”って決めつけられてるみたいで。あれ、地味にムカつくんすよね」
彼女は笑いながらそう言ったけど、その声にはほんの少しだけ棘が混じっていた。
「福岡って、どこ行っても“知ってる顔が一人はいる”んすよ。あれが嫌で出たのに、いざ戻ってくるとそれがちょっと安心だったりして。だから、もういいかなって。自分の声で、自分の言葉で、福岡で喋ってみても」
最後のひと言は、独り言のようだった。けれど、その響きには確かに残るものがあった。
みどりは「ありがとうございました」とだけ言って、ブースを後にした。扉が閉まる音がして、スタジオに少しだけ静けさが戻る。彼女の声は、イヤホンを外した後も頭のどこかで鳴っていた。何かが本当に届きそうな気がした。
あの声の奥に何があるのか──ちゃんと確かめてみたくなった。
福岡に来て、こんなにも心がざわつくとは思わなかった。東京ではとっくに忘れていた感覚。けれど、今の俺は伊賀みどりという存在をちゃんと確かめたくなっていた。その感情に名前をつけるのは、まだ少し早い気がした。
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