幸せの温度

青居緑

第1話

時々、夫に隠れて見るものがある。




ようやく静かな寝息になったのを確認して、そうっと娘を布団におろす。何も考えず、無心で…無心で……。

息をひそめ、そうっと身体を離す。

どうやら今度は大丈夫だろうか。


三ヶ月に入ったばかりの娘は小さな手を万歳して、心地良い眠りについている。こうして寝てくれたら安心だが、近頃は泣いてばかりで大変だ。反対側の布団には、五歳になった息子が眠る。こちらはぐっすりのようだ。大胆な寝姿にくすりとする。


夫は出張。一人きりの夜も慣れた。心細いが、できる時にはよくやってくれる夫だ。不満はほとんどない。

だけど、こんな夜は時々、昔を思い出す。


誰もいないリビングに戻り、LINEを開く。一件来ていた新規のメッセージは、後で見ることにする。私の指は、もうずっと昔のトーク履歴を追ってスライドしていく。そして辿り着いたそれをタップする。表示されたトークは、彼からのメッセージで終わっている。


「やり直したい」


そして、その言葉に至るまでの、無数のやり取り。恨み言、罵詈雑言、下劣な言葉の応酬。

LINEに表示された履歴に、私は昔に還る。あの頃のバカで愚かで一生懸命だった自分。何も知らないくせに、なぜかできる気になっていた自分。まだ一歳にもならない息子を連れて、出て行った自分。

最後のメッセージに応えたら、今はどうなっていただろう。

選択は間違いじゃなかった。そう思うのに、時々選ばなかった未来を思う。

夫のことは大好きだ。本当によくやってくれていると思う。だけど、手探りで過ごしてきた日々がなぜか輝いて思えることもある。


背後で小さな足音がした。ためらいがちに、ゆっくりと開かれる扉。寝ぼけたかわいい声。


「ママ。ゆうくん、おきちゃったの……」


「そっか。じゃあ、ゆうくんとちいちゃんとママで三人で寝ようね」


「パパは?」


「明日はパパと四人で寝ようねえ」




きゅっと私の手をつかむ、小さな手のひらの温かみ。

ああ、私は幸せだ。

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幸せの温度 青居緑 @sumi3_co

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