猪突猛進

冬部 圭

猪突猛進

 幼いころ、僕は無敵だった。自分が絶対に正しいという根拠のない自信に満ち溢れていて本当に困った子供だったと思う。

 正しいことをしなさい。悪いことはしてはダメ。そんな祖母の教えを忠実に守っているつもりだったから、迷いなくいろいろ突き進んでいた。悪いと思うことはしなかった。嘘なんてもってのほか。嘘をつく必要が無いように常に心掛けていた。

 独りよがりの正義を振りかざして。友達との口喧嘩では一歩も引かなかった。だって、自分の方が絶対に正しいと思っていたから。

 ほころびに気付いたのは中学校の時だったと思う。ふとした瞬間にクラスで浮いていると感じた。何で気づいたかは思い出せない。浮いている理由もその時はわからなかった。

 浮いていた理由は今ならわかる。相手の主張にお構いなしで自分の思う正しさを押し通していたから。自分が正しい、お前は間違っている。そんな主張をする奴と仲良くしたいという人はほとんどいない。

 当時の僕は何かおかしいと気づいてもその理由までは理解できず、だからそれまでの行動様式を変えることもなく。クラスの中、学校の中で孤立していった。

 学校では一人でいることが増えたけれど、とくには気にしていなかった。悪いこと、間違ったことはしていないという自信があったから。群れないクラスメイトも中にはいて僕だけが一人と言うわけでもなかった。

 高校は中学の延長線上だった。似たような状況だったけれど特に不自由なく三年間を過ごした。

 大学に入って少し自由になって、初めて自分の置かれている不自由を認識した。

 自分が正しいと思っているからか、人の不正を許容できない。それまでも不正を働くクラスメイトはいたはずだけど、気付かなかったのか、無意識に見ないふりをしていたのか。高校までのクラスメイトは僕が面倒なことを言うことを知っていたから、不正をする際、お互いのために僕に気付かれないように気を付けてくれていたのかもしれない。

 救いは僕が許容できないのは不正であって、失敗ではないことだった。

 だから、大学に入って「いつも失敗ばかりしてる」と自分で言っている友達ができた。

「周りのことが見えてないんだ。猪突猛進。自分のやりたいことをやる。常に突き進む。だから周りに迷惑ばかりかけている」

 と彼は自虐的に言って笑った。

「周りにとって良いことも、悪いことも。迷惑をかけたいわけじゃないから世の中のルールは守っているつもりなんだけど、やっぱり抜けてることがあって。まずいことをしていたら止めてもらえると助かる」

 続けて彼は嫌われ者の僕にそんなことを頼んだ。

「僕の正義は歪んでいるかもしれないよ」

 頼ってもらったのは嬉しかったけれど、僕の正義は多分正しくないと気づき始めていたので、素直に任せろと言えなかった。それでも彼は、

「いいんだよ。正義なんて、みんなそれぞれ違って。お互いの正義をどこかでぶつけ合って折り合いをつけていく。そんなもんだろ」

 そう言って僕を励ましてくれた。更に、

「自分の正義、信念を貫くのは大切なことだって親父が言ってた」

 と続けて、歯を見せて笑った。嫌味のない気持ち良い笑顔だった。

 彼の言葉は僕にとって光明だった。正義なんてみんな違う。僕は僕の正義を人に当てはめようとして苦しくなっていたのだ。僕の正義は僕だけのもの。だから僕はその正義を裏切らない様に自らを律するが、他人がそれを守る必要はない。他人には他人が信じる正義があり、それに従って行動しているのだ。

 歪んだ正義で人を傷つけるのは僕だけではないからと言って、それが免罪符になるわけではない。僕は自分の正義を当てはめるのを僕と彼だけに限定した。

 時折、人が僕にとっての不正義を働き憤ることはあったけれど、法に触れることでなければ見逃すことができるようになった。

 ある時、猪突猛進君と街を歩いていた時に、人気店の列の割り込みを見かけて憤ることがあった。

「許せない。懲らしめてやるとは思わないけど。許せない。こういう気持ちはどうやって解消したらいいんだろうね」

 僕が愚痴をこぼすと彼は豪快に笑って、

「懲らしめてやるとは思わないってのが面白いな」

 と僕の背中をたたいた。

「僕が不利益を被ったわけではないから、それは正しいことではないだろ」

 咳込みながら僕は答えた。

「違いない」

 と彼は更に笑った後、少し真剣な顔つきになった。

「気持ちが楽になる方法がいくつかあるよ」

 彼の変化に戸惑いながら、

「どんな方法か教えてくれ」

 と僕は聞いた。

「正攻法はなんでそんなことをしたのかを知ることだな。観察して事実を知るもよし、勝手に推測して勝手に納得するもよし。推測するときは自分が共感できる理由にしておいたほうがいいと思うけどね」

 猪突猛進な男を自称する割には搦手のような気がする。

「さっきの場合に当てはめるとどうだろう」

 少し面白くなって、からかい半分に聞いてみる。

「一回並んでたんだ。あの人。あの順番で。だけどなんかの理由で列を離れた。列を離れた人が戻ってきたのがわかったから、後ろの人達は文句を言わなかった」

 すらすらと猪突猛進君は説明した。あまりに自信がありそうなので、そんなこともあるかもしれないという気になった。

「確かに後ろの人たちとは揉めてなかったかもな」

 割り込まれたように見えた後ろの人たちが納得しているのなら、当事者でない僕が文句を言う筋合いはない。後ろの人たちともめなかった理由を思い当れば僕は心穏やかでいられるというわけか。

「納得した。ありがとう。これからもその手を使ってみる」

 猪突猛進君はいくつかあると言っていたけれど、一度にいろいろ教わっても実践できないだろうから、それ以上の教えを乞うことはやめておく。

「この手が使えないときは別の手があるにはある」

 彼はそう言ったけれど、別の手ってやつは教えてくれなかった。

 それから彼の教えてくれた方法を何度か繰り返すうちに、僕はだいぶ日々を過ごしやすくなった。そんな感想を述べると、猪突猛進君は

「よかったじゃないか」

 と言って笑った。僕のアイデンティティは少し失われたような気がしたが、世間と折り合いをつけることができたので悪いことではないのだと思った。

 そんなある日、猪突猛進君と学校帰りに晩飯を一緒に食べに行こうという話になって学生街の安い食堂に向かっている時だった。

 耳障りなブレーキ音の後に何かがぶつかった音がして、そちらのほうを見た。

倒れた自転車と投げ出された女性。急発進して逃げていく自動車。ひき逃げだ。怒りが沸々と沸いてくる。

「腹が立つかもしれないけど、まずは救急車だ」

 猪突猛進君はそう叫んで僕を現実に引き戻してくれる。

 僕は慌てて救急連絡をする。

 僕が現在位置をうまく説明できずに救急車を呼ぶのに手間取っている間に猪突猛進君は倒れている女性に駆け寄って介抱している。

「大丈夫ですか。救急車を呼びましたので」

 猪突猛進君はそんなことを女性に伝えている。女性は足を痛めたみたいだったけれど、受け答えははっきりしていて命には別状がなさそうなのでひとまず安心する。

「そうだ、警察」

 ひき逃げなので警察に届けないと。けがをした女性の対応は猪突猛進君に任せて警察に通報する。

 しばらくして救急車が到着する。女性が救急隊員のお兄さんと何か話をしているのをぼんやり見ているうちに警察官も到着する。

 僕が通報したのでいろいろと聞かれたけれど、事故の状況とかよく理解できていないのでうまく説明できない。もどかしい思いをしていると、猪突猛進君が事故の状況を説明してくれる。そのうえ、

「車種は○○の△△、色は赤。ナンバーは数字しかわかりませんが、××-××、市役所方向に走っていきました」

 と、そんなことよく覚えていられるなと思うようなことも言いだした。対応していた警察官も驚いているようだった。

 僕たちは色々聞かれた後、解放されたのは女性を乗せた救急車が病院に向かった後だった。

「悪いな、つき合わせて」

 猪突猛進君はそんな風に言って頭を下げた。

「別に悪いことをしたわけじゃない。でも、手際の良さには驚いたよ。車のナンバーまで覚えているなんてびっくりした」

 素直に感想を述べる。

「昔失敗したんだ。当て逃げが許せなくて自転車で車を追いかけた。でも、まずは当てられた方の心配をしろよって𠮟られた。車は当然見失うし、友達を失くすし、散々だった。だから、あの時どうすれば良かったか一生懸命考えた。今日はその答え合わせだな」

 猪突猛進君はそんな風に言って笑った。

 悪いことをする奴は許せない。だけど、そんな奴を懲らしめる前にやるべきことがあるのかもしれない。悪い奴を懲らしめるのはその次だ。

 猪突猛進君は被害者の女性をまず助けた。それから車の特徴をきちんと伝えることで悪い奴が懲らしめられるような筋道を立てた。それが彼の中の優先順位だった。僕は僕の怒りを解消すことを優先していたということを痛感する。

「逃げた奴には逃げた奴の理屈や事情があるんだろうさ。だけど、そんなことを斟酌するかどうかは俺たちの考えることじゃない。悪い奴は許さないって気持ちはこうやって晴らさせてもらう」

 猪突猛進君が言っていた別の方法ってこういうことかと納得した。

「これが別の手ってやつだね」

 と指摘したら、察しの良い彼はどの話のことかすぐに理解して、

「違うよ。別の手ってのは他にある」

 と答えた。

「あまりお勧めしない方法と全くお勧めしない方法だ。だから君には君と仲違いするまでは教えない」

 それを聞いて少し驚く。教えるに値しないと思う方法なのか、何かやましい方法なのかはわからないけれど、お勧めしない方法と言うのなら、猪突猛進君と仲違いしてまで教えてもらおうとは思わない。

 猪突猛進といった割には策士じゃないか。それは詐称とは言わないかと少し咎める気持ちが湧いたけれど、他人には他人の事情があるから推し量れという彼のアドバイスを思い出して実践することで、僕の心のとげは解消された。

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