9. 中産階級の紳士
「ですから、警部。私、見ましたのよ。あの方が<王女の涙>が盗まれたとわかった直後に嬉しそうに笑っていらっしゃったのを」
アメリアとアルバート卿が執事を探して大ホールに戻ると、その一角でちょっとした騒ぎが発生していた。
レディ・グレイスが抑制されているが深刻な口調でヘイスティングス警部に訴えかけている。
彼女が先ほど話していた「ダイヤモンドが盗まれて嬉しそうにしていた男」の件をついに警部に報告したのだろう。
2人は一瞬目配せをして、彼らに足早に近づいていった。
「なるほど?もう一度その笑っていた男の名前をお聞きしても?」
「ミスター・ブルックですわ。アッシュコム銀行の。あのとき、彼も私も砂糖まみれになった兄の世話をしていたので、私は彼の表情をほんの1ヤードくらいの距離で見たのです。間違いございません」
名指しされたミスター・ブルックも彼らの近くにいて青ざめた顔をしていた。
ヘイスティングス警部は彼を鋭い目で睨み、レディ・グレイスは彼を冷たい目で見ている。
「あなたがミスター・ブルックですね?」
「ええ……」
「確か今朝<王女の涙>をアッシュコム銀行からこのタウンハウスに運んできたのはあなたではなかったですか?」
「あの……私は……」
「盗難が発覚したときに嬉しそうに笑っていたというのは本当ですか?」
「ええと、確かに笑ったかもしれませんが……ちょっと違っていて……」
「ええ?笑ったのか笑わなかったのかはっきりしてもらえませんか?」
警部の追及にミスター・ブルックは震えてしどろもどろになっている。
――かわいそうなミスター・ブルック……。
アメリアは反射的にこの中産階級の雇われ人の紳士に同情した。
そして、なぜか亡き父の言葉が頭の中に響いた。
彼女が男爵位の継承を決めたときに思い浮かんだのと同じ言葉だ。
――いいかい、アメリア。
――人間というのは弱い生き物だ。
――私は法廷弁護士の職務の中で、自分に課せられた責任から逃げ出す者をたくさん見てきた。
――でもね。人間誰しも責任から逃げてはならないときがあるんだよ。
――それを忘れないでいて欲しい。
父の言葉を反芻したアメリアのヘーゼルの瞳にある確信が浮かんだ。
隣で彼女の表情を見たアルバート卿はやや怪訝そうな顔をしている。
「あの、よろしいでしょうか?」
アメリアはヘイスティングス警部に向かって遠慮がちに声を掛けた。
「ええと、お嬢さん、あなたは?」
「ひとまず、法廷弁護士の娘と申しておきましょう」
彼女は女男爵と名乗るよりその方が信頼されるのではと思い、そう切り出した。
「ミスター・ブルックは<王女の涙>が盗まれたこと自体を嬉しく思って笑ったのではないと思いますわ。そうではなくて?ミスター・ブルック?」
ミスター・ブルックはようやく味方が現れたとばかりに激しく頷いている。
「では、こちらの侯爵のご令嬢が嘘をついていると?」
ヘイスティングス警部の言葉にレディ・グレイスの青みがかった灰色の瞳の奥に一瞬憤りが浮かぶ。
「いえいえ、まさか。レディ・グレイスは本当のことをおっしゃっていると思いますわ。ただ――」
「ただ?」
「ただ、レディ・グレイスは侯爵家のご令嬢ですから、中産階級の雇われ人の本心までは、きっとおわかりにならないということです」
「『雇われ人の本心』と言いますと?」
警部は「わけがわからん」と言いたげに、隣にいた部下に向かって肩を竦めて見せた。
「ミスター・ブルックは安心したのですよ。<王女の涙>が盗まれたのはこの侯爵家のタウンハウスであって、銀行ではなかったのですから。人というのは概して弱い生き物ですから、重すぎる責任からは逃げ出したくなるものです」
そこまで言うとアメリアは敢えてミスター・ブルックに微笑みかけた。
「もし銀行で盗まれていたらアッシュコム銀行もミスター・ブルックご自身も責任を追及されて大変なことになっていたでしょうね。そうでしょう、ミスター・ブルック?」
「ええ、お嬢様のおっしゃる通りですよ。皆さんどうかわかってください」
ミスター・ブルックは最早目に涙を浮かべて必死に訴えている。
「犯人と目されている窃盗団<静かなる猫>は銀行の金庫から宝飾品を盗み出したこともございました。ですから、頭取からも『銀行で盗まれることだけは絶対に避けるように』と言われていたのです。この指輪はとても当行でかけている保険ではまかないきれないほどの価値がありますから……」
警部は「ふむ」とつぶやき、レディ・グレイスは呆れたようにため息をついた。
アルバート卿は興味深そうにアメリアとミスター・ブルックを交互に見ている。
「なので、我々アッシュコム銀行の管理下ではなく、こちらで盗難が起きたとわかり、私はつい安心してしまったのです。何とか首の皮一枚繋がったと。当行の信用も私の雇用も」
ミスター・ブルックの正直な告白に一同はしばし沈黙する。
沈黙を破ったのはレディ・グレイスだった。
「どうやら私の勘違いだったようですわね。ミスター・ブルックは罪があったわけではなく、責任感がなかったというわけです。お詫びしますわ」
「はい、全くおっしゃる通りで。私の責任感のなさが混乱を招いてしまいまして……」
ミスター・ブルックは相当不名誉なことを言われているが、なりふり構わず認めた。
しかし、アメリアは彼を見下したり軽蔑したりする気にはならなかった。
この中産階級の紳士は自分と家族の生活を守るために必死なのだ。
「全く人騒がせな……しかし、皆さん、他に何か気づいたことがあれば遠慮なく報告してくださいよ」
そう言って警部は他の捜査に戻ると言って部下と共に去っていった。
その背中を見送りながらレディ・グレイスは長い溜息を漏らした。
「私もお父様に当てがはずれたことを報告しないといけないわね」
「残念ですわ。本当に」
アメリアがレディ・グレイスに声を掛けると、意外にも彼女は楽し気に微笑んだ。
「私、あなたには感謝しなければね。私だって無実の人を罪に問いたかったわけではありませんもの」
それだけ言うとレディ・グレイスもまた侯爵の元へと去っていった。
***
「全く……感心しましたよ、レディ・メラヴェル」
一連のやりとりを黙って聞いていたアルバート卿は感嘆のため息を漏らす。
「ええ、中産階級の生まれの女男爵だからこそできる推理ですわね、アルバート卿」
アメリアは皮肉に言うが、その口元には自信と誇りが覗いている。
「おや、皮肉は私の担当のはずですよ?」
アルバート卿は軽く笑って言ってから、真剣な顔になって改めて口を開きかけた。
「レディ・メラヴェル、私はあなたに――」
「お嬢様、ありがとうございました!」
とそのとき、今までの出来事にしばし呆然としていたミスター・ブルックがやっと我に返ったのかアメリアに礼を言いに近づいてきた。
「ミスター・ブルック、本当によかったわ」
「失礼ですが、お名前を伺っても?先ほど<王女の涙>をご覧に入れたときに伺っておくべきでした」
「レディ・メラヴェルです。メラヴェル女男爵ですわ」
「あなたがあの女男爵様でしたか。職業柄<ロンドン・ガゼット>の広報は欠かさず読んでおりますので、お名前は存じ上げておりました。改めて先ほどの件、お礼を申し上げます」
ミスター・ブルックは一瞬恐縮した面持ちになって一礼する。
アメリアは礼を受けながら、アルバート卿に目配せする。
アルバート卿も彼女の意図を了解して眉を上げた。
「ところで、ミスター・ブルック、私とアルバート卿は今回の事件について独自に調べていまして、少しお伺いしても?」
「ええ、私でお力になれることでしたら」
緊張が解けた様子のミスター・ブルックが職業人らしい笑顔で答えた。
「<王女の涙>は今朝あなたが運んでいらっしゃったのでしたね?その後、ショーケースに飾られるまでは誰が保管していたのかしら?」
「ええと……今朝、私が鍵をかけたトランクに入れて<王女の涙>を運んできまして、まずは、一同で<王女の涙>を確認しました。一同というのは、侯爵様と子爵様、執事のミスター・リー、ヘイスティングス警部とあと警官が何人かです。そして、また一旦トランクにしまって、一同一緒にこの大ホールに運んできました」
「ちょうどあそこです」とミスター・ブルックは、まだショーケースが置かれている一角を指した。
今、ちょうどそこにはヘイスティングス警部とミスター・リーの姿があった。
アメリアとアルバート卿はミスター・ブルックとの会話が終わり次第、そこに行こうと頷き合った。
「大ホールにはミス・ジョーンズと別の警官が待っていて、ショーケースはミス・ジョーンズの指定する場所に置かれていました。女男爵様には前にお伝えしましたが、日光やシャンデリアの明かりが当たり過ぎない場所ですね」
アメリアは数時間前に<王女の涙>を見ながらミスター・ブルックに聞いたことを思い出した。
「そこで私はトランクから<王女の涙>を出して、ショーケースの後ろの扉を開けて、そこから<王女の涙>を中に収めました。私が付いていたのはそこまでです。その後の監視はずっと2人の警官とミスター・リーの3人が担当していました」
ミスター・ブルックによりこのタウンハウスに<王女の涙>が運ばれてきてから大ホールのショーケースに移されるまでずっと、ミスター・ブルック自身と侯爵、子爵、ミスター・リー、ヘイスティングス警部、警官たち、そして、途中からはミス・ジョーンズの目があったとするとその間に何か指輪に細工をするのは難しそうだ。
「あのショーケースは警察が用意したものなのでしょうか?」
アルバート卿が横から質問する。良いポイントだとアメリアは思った。
「ええ、そうです。ショーケースが載っているテーブル――あの緋色のビロードの布がかけられているテーブルです――は侯爵家で用意したものだそうですが、ショーケース自体は警察が持って来たようです」
そうすると警察以外の人間がショーケースに何か細工をするのも難しそうだ。
「ショーケースの扉には鍵がついているのですか?」
「ええ、付いています。ショーケースの鍵は3本ありまして、1本はヘイスティングス警部、2本は侯爵様がミス・ジョーンズとミスター・リーにお預けになりました」
そうすると、ショーケースを開けられるのは彼ら3人に限られていることになる。
しかし、他人が鍵を盗み出すことも考えられるので、後で本人に確認してみた方がよさそうだとアメリアは思った。
「そもそも、衆人環視の下で警備をすることについて反対意見はなかったのですか?」
続いてアメリアはふと浮かんだ疑問を尋ねた。
ここまでの確認から推測するに、今回の盗難はやはりケーキ倒壊の騒ぎの中で起こったのだろう。
そうであれば、銀行の金庫に入れておけばこのような隙は生じなかったように思えたのだ。
「ええと……それがですね。先ほどの責任の話につながるのです」
ミスター・ブルックはやや気まずそうに切り出した。
「警備方針は、我々アッシュコム銀行と警察、侯爵家の間でよく議論されて決まりました。銀行は、私と頭取、警察はヘイスティングス警部と部下の巡査部長が出席されていました。侯爵家は最初は侯爵様と子爵様が参加されていましたが、その内に執事のミスター・リーと部下の下級執事に交代されました。そこで議論する内に、誰が言い出したのか、結局誰の責任で警備を行うかが大事という話になったのです」
アメリアとアルバート卿は少し眉を上げ、ミスター・ブルックはため息をついた。
「そこで、お恥ずかしながら私も頭取も銀行の責任になることに尻込みをしてしまいまして、つい、衆人環視で警備をする案を強く推してしまいました」
「なるほど……では、この衆人環視の下で警備する案は誰が言いだしたのでしょう?」
アルバート卿の問いにミスター・ブルックは遠い記憶を掘り起こすかのように額に手を当てたが最終的には首を振った。
「すみません、はっきりとは思い出せません。皆が<静かなる猫>の恐怖にとらわれていたので、当初から議論は混迷しておりまして」
アメリアとアルバート卿は顔を見合わせる。
もし、<王女の涙>を衆人環視に晒す案が犯人によって提案されたか、誰かがそれを提案するように犯人が誘導したものだったとしたら?
そして、それに皆が乗せられたとしたら?
今日起きたことはすべて犯人の思惑通りなのかもしれない。
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