私のシャツ返してください、あと名前も
蒼月想
第1話:番号違いの再会
あのクリーニング屋に足を踏み入れた日のことを、私は今でもよく覚えている。
それが、すべての始まりだった――今になって、ようやくそう思える。
*
四年前の春。
よく晴れた、午前十時を少し回った頃だったと思う。
その日、クライアントとの大事な打ち合わせを控えた私は、“勝負服”を受け取りに、小さなクリーニング店に向かった。
東京の下町、商店街の外れにぽつんとあるその店は、知らない人が見たら通り過ぎてしまいそうなほど目立たない。けれど私は、ここをひっそりと贔屓にしていた。無口だけど丁寧な女性スタッフと、なぜか毎回しっかり仕上がってくる襟元。そんなところが、妙に気に入っていた。
カラン――。
控えめな鈴の音を鳴らして、私はガラスのドアを押し開けた。
店内には誰もいなくて、やけに静かだった。窓から射しこむ日差しが、シャツの白さを際立たせる。
「すみません、379番の受け取りで……高山千紗です」
カウンターに番号札を差し出すと、奥から女性スタッフがぬっと顔を出した。無言でうなずき、後ろのハンガー棚をごそごそと探る。そして戻ってきた彼女の手には、ビニールに包まれた白いシャツが2枚。
「はい、お待たせしました」
受け取ってすぐ、私は首をかしげた。
(あれ……?)
タグの位置がいつもと違う。
肩幅も、なんとなく広い気がする。いや、たぶん気のせいじゃない。
「すみません……これ、もしかして……私のじゃないかも……」
言いかけたそのとき。
「たぶん、それ、僕のですね。番号、ひとつ違いです」
すぐ隣から聞こえた声に、私はびっくりして振り返った。
立っていたのは、黒縁メガネをかけたスーツ姿の男性だった。歳はたぶん、私と同じくらい。髪は無造作に分けられていて、声よりも目元が優しげだった。
「僕、378番です」
そう言って、彼は控えめに番号札を差し出して見せた。
「あっ……すみません、私が番号間違えて……」
気まずくなって、私はぺこりと頭を下げる。
「名前、ちゃんと確認しないとですね」
「いえいえ。こちらこそ、先に言えばよかった」
彼は少しだけ口角を上げた。
苦笑い、というにはあたたかすぎる笑顔だった。
「なんか、こういうのって……微妙に気まずいですよね」
彼が苦笑いを浮かべながら言った。
私はうなずいて、つい言葉がこぼれる。
「ですね……」
二人でシャツを交換しながら、どちらともなく笑いがこぼれた。
ほんの数十秒のやり取り。でも、不思議なほど印象に残った。
*
それから一週間ほど経ったある日の午後。
私は駅ビルの書店で、新しい万年筆を探していた。
文具売り場の万年筆コーナーをうろうろと眺めていると、不意に背後から声がした。
「……あれ? また偶然ですね。確か……高山千紗さん、でしたよね?」
まさか、と思って振り向くと――そこに、あのシャツの男性がいた。
「えっ……クリーニングの……」
「はい。あの“番号ひとつ違い”の」
彼は人差し指を立てて、いたずらっぽく笑った。
私は思わず声を漏らす。
「覚えててくれたんですね。名前まで」
「聞こえちゃったので、なんとなく」
照れくさそうに笑う彼の手には、一冊の本。
『なぜ猫は人を許してくれないのか』
インパクトの強いタイトルに、思わず吹き出しそうになる。
「……それ、タイトルですか?」
「ええ。完全に、ジャケ買いです」
彼は表紙を見つめたまま、まるで照れるように言った。
「猫に、なんか恨まれてるんですか?」
「むしろ、許されたいです。猫に。あと、人生に」
「……だいぶ重症ですね」
「ええ。でも多分、猫のほうがもっと根に持ってると思います」
私はつい、くすくすと笑ってしまった。
彼もそれを狙っていたのか、いたずらっぽく目を細めた。
「ところで、どうして私の名前、覚えてたんですか?」
ふと気になって聞いてみると、彼はちょっとだけ驚いた顔をして、すぐに眉を下げた。
「あ、あれは……受付で言ってたのが聞こえただけで。盗み聞きとかじゃないですよ?」
そして急に焦りだす。
「え、まさか……気持ち悪かったです?」
私はわざと真顔で一呼吸置いてから、ニヤリと笑った。
「はい。ちょっと気持ち悪いです」
「うわ、やっぱりか!」
彼が頭をかいて笑うから、私もつられて吹き出してしまう。
そのまま、会話が自然と続いた。
「……あのシャツ、ちゃんと着られました?」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「ええ。友達の結婚式で。でも、正直スーツって苦手なんですよね」
「今もスーツ着てますよね?」
「仕事なんで。これはもう、人生という名の苦行です」
「スーツ嫌いな男性、ちょっと珍しいかも」
「“きちっと感”がダメで。肩も心も、カチカチになるんですよ」
「分かります。私は靴がそれです。パンプス履くと、心が靴擦れします」
その瞬間、彼は笑いをこらえきれず吹き出した。
「心が靴擦れ……それ、名言ですよ」
初対面に近いはずなのに、会話が止まらないことが、むしろ心地よかった。
「ちなみに、お仕事は?」
「広告代理店です。派手に見えて、実は地味な残業デスクワークですよ」
「へぇ。なんか、かっこいいですね」
「今の、たぶん社交辞令ですよね?」
「はい。120点のやつです」
「満点超えてる!」
ふたりでまた笑った。
「私はお客さん先のホームページとか作ったりします」
「なるほど。“パソコンカタカタ系”ですね」
「なんですか、それ」
「机に向かって、カタカタしてる系の人」
「じゃああなたも、カタカタ系ですよね?」
「同族ですね」
また、笑い合う。
それなのに、不思議と気まずさはなかった。
「……じゃあ、またどこかでお会いしたら」
彼がそう言って、会計へと向かった。
「はい。またどこかで」
私も背を向けたそのときだった。
「……あのっ、よかったら今度、お茶でもどうですか?」
背中越しに届いた声に、思わず振り返る。
彼はレジの前で立ち尽くしていた。
照れ隠しのように唇を噛んで、視線を宙に泳がせている。
「いや、その……“またシャツ間違えて渡してくれたら”とかじゃないですよ」
「それ、誘い文句としては最低ですね」
「うん、自分でも思いました。ほぼ事故狙いですよね」
「もはや保険金詐欺です」
「やっぱり……センスないなぁ」
彼は苦笑しながら頭をかいた。
「でも、“きっかけは何でもいい”って、誰かが言ってた気がして」
「その“誰か”、たぶん責任取ってくれないですよね」
「ぐうの音も出ません……」
私は、笑ってしまった。自然と、頬がゆるむ。
「……まぁ、嫌いじゃないです。そういうの」
彼の目が、ほんの少し見開かれた。
それから、ふっと笑って――言った。
「じゃあ……本当に誘ったってことで。連絡先、教えてもらえますか?」
「はい。“事故じゃない”やつで」
スマホを取り出し、LINEを交換する。
ほんの数分前まで、ただの偶然だったのに。
たったそれだけのことで、心が少しだけ、あたたかくなる。
「……ていうか、会計まだですよね?」
「やばっ!」
彼は小走りでレジへ駆けていった。
その背中を見ながら、私は思わずクスッと笑った。
帰宅途中、LINEを開くと、新しく追加された名前が表示された。
湊 圭(みなと けい)
その名前を見つめながら、私はふっと笑った。
思ってたより――悪くない偶然だった。
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