第1章 星図と密林のあいだで
――水の音がした。
それは風ではなかった。雨でもない。
木々の根が、どこかで水を伝って響かせる音。
目には見えないその囁きが、地面の奥で静かに、しかし確かに続いていた。
カルラ・コルテスは、泥に足を取られそうになりながらも、身体の芯がざわめくのを感じていた。
ナスカの砂とは違う。アタカマの風とも違う。
ここには、“乾き”が存在しない。
代わりにあるのは、沈黙する湿気と、長い時間に染み込んだ記憶だ。
「GPS、誤差5メートルまで縮んだわ。リング群の外縁近く」
リモートで接続しているミーナの声が、ヘッドセットから低く響く。
彼女の通信には、どこか緊張が混じっていた。
「ありがとう。もう少しで合流点よ」
カルラは静かに答えた。
その声には、期待と不安が同居していた。
何かを“探す”ことに慣れてきたはずの彼女にとっても、
ここ――アマゾンの密林奥地は、明らかに“異質”だった。
木々は高く、空がほとんど見えない。
視界は緑のフィルターを通したように色彩を失い、
湿った土と、無数の葉擦れが五感を埋め尽くす。
「見えないのに、何かに“見られてる”感じするな」
ユウタが小声でつぶやいた。
普段はデジタルを通して世界を見ている彼の神経が、直感的に反応しているのがわかる。
「それ、すごく分かる」
イサベルも歩を止め、辺りを見渡した。
「風も音も、全部が“息を潜めてる”みたい」
「この森には、“語りかける者”がいる」
ルーカスが言った。
彼の手には、語り部ナイラから託された手帳と録音ペンがある。
「何も言葉にしないのに、何かを“伝えよう”としてる。
その声が、地面の奥から響いてくる気がする」
カルラは足を止めた。
葉の影から差す光が、ぬかるみに沈みそうなブーツを照らす。
汗ばむ掌を広げて、そっと土に触れる。
冷たい。けれど、どこかあたたかい。
“ここに、誰かがいた”
そう思った瞬間、肩にふわりと風が流れた。
……いや、“風”のような何かが通り過ぎたのかもしれない。
《注意:気圧変動検知。
周囲の樹冠群に外部振動の兆候あり》
ORBISの通知が流れる。
「雨の前兆かもな……」
ユウタが空を仰ぐ。けれど、視界に空はない。
「森の声は、“上”じゃなく“下”にある」
カルラはそう答えた。
「この地面の中に、“星図の続きを知る者”が眠ってる。
きっとそれを、わたしたちが“語り起こす”ことになる」
やがて木々の向こうに、簡素なあずまやのような小屋が見えてきた。
その脇に、茶色いローブをまとった人物が立っていた。
カルラたちに気づくと、手を上げ、静かに会釈をする。
「先住共同体評議会の案内人だ」
ルーカスがそっと言う。
「さあ、森の語り部に出会いに行こう」
カルラはうなずいた。
背筋を正すように、意識して一歩を踏み出す。
それは、ただの“探索”ではなかった。
これまでの旅とはまったく異なる――
“語りを受け継ぐ”旅の始まりだった。
星図は、いまだ完成していない。
けれど、そこに向かう“線”はすでに始まっている。
地面の下で、声なき声を震わせながら。
第3巻・第1章 専門用語解説
◆ 星図の受け継ぎ(せいずのうけつぎ)
カルラのセリフと行動から示唆される、新たな探究のスタンス。
これまでの“発見する”“解析する”星図から、“語りを通して受け継ぐ”星図へと移行している概念。
星図は過去の記録ではなく、「次に語る誰か」によって生き続けるものと再定義されつつある。
◆ 密林記憶構造(みつりんきおくこうぞう)
アマゾン奥地のように、物理的に地形が可視化されない場所に存在する、“沈黙型”の地上絵や文化的痕跡の構造を指す。
湿度・腐植・樹冠の重なりによって視覚的な痕跡は薄れるが、その地に宿る「語り」「神話」「振動」などが“記憶のインフラ”として機能している。
◆ 地面の星(じめんのほし)
「空に輝く星」とは対照的に、本巻では“地面の下に眠る記憶の星”という比喩が頻出する。
過去の声、踏みしめられた足跡、語られずに消えかけた線――それらはすべて「星になり損ねた記録」としてこの用語に集約されている。
◆ 語りの共演(かたりのきょうえん)
カルラたちの探索が、現地の先住共同体と“並列的に語る”構造に変化することを示す言葉。
単に「説明を聞く」「案内してもらう」のではなく、互いに語り、線を重ね、ひとつの星図を“共に構築していく”態度。
◆ 地図にならない線(ちずにならないせん)
衛星やドローンによるデータに映らない、感覚・伝承・身体性から生まれる“非座標的”な線。
密林では視覚情報が失われるぶん、語り・触覚・音による「記憶の線」が重視されていく。
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