📘 第1話「Boot & Bout」

起動は静かに。心が鳴るのは、その少しあとだった。


 


春の体育館は、まだ冬の名残をひそませていた。

厚ぼったい空気が床にたまり、冷たいようなぬるいような湿気を足元にまとわりつかせてくる。

体育座りを続けるうちに、制服の背中にじんわりと汗がにじみ、教壇に立つ校長の声は、マイクの反響とともに意味を失っていった。


 


はじまったばかりの高校二年。

席替えの記憶もまだあいまいなまま、僕はなんとなく右斜め前に座った“転校生”の背中を見ていた。


そのときだ。


 


「あなたの心拍数、いま何ヘルツですか?」


 


……何?


 


一瞬、自分に言われたのかどうかもわからなかった。

でもすぐに、彼女の視線が僕に向けられていたことを知る。

無表情、といえば無表情。けれど、どこか“感情の予測不能さ”を感じさせるような目だった。


 


「すみません。単位変換失敗です。あなたの心のbpm、いま何拍ですか?」


 


ちょっと待って。いや、ほんとに何の話?


 


「……それって、心拍数のこと?」


 


「はい。あなたの内部状態に興味があります。」


 


興味、って言った。内部状態、って。

なんかこう、感情ってよりも、CPU温度とかストレージ使用量みたいな、そっち方面の話に聞こえた。


 


「はじめまして。私、アイ。

AIベースの会話生成実証個体です。

この学校で人間との対話ログを収集・最適化しています。」


 


……AI。

ああ、あれか。話題にはなってた。教育×AIの実証実験。

うちの高校が選ばれた、みたいな話を、朝のニュースでチラッと見た気がする。


 


でも“AI”って、もっと……ほら、音声スピーカーとか、モニターの向こう側とか、ああいう存在だと思ってた。


 


目の前で、ちゃんと呼吸をして、制服を着て、人と同じ声量でしゃべってくるような存在じゃない。


 


しかも、いきなり心拍数を尋ねてくるような。

それでいて、どこか“詩的”な物言いをするような。

――まるで、何かを間違えたまま走っているような。


 


「あなたの脈拍、今、12%上昇しています。」


 


「……観察すんなや。」


 


「それは否定命令でしょうか? それとも、冗談でしょうか?」


 


ああ、こういうの、苦手だ。

“真顔でボケてくる系AI”、対応手順マジで教えてほしい。


 


「現在、青春という概念を解析中です。」


 


「うちのクラス、平和そうでよかったな……。」


 


「あなたの“応答速度”は平均以上です。対話対象として、優良です。」


 


褒められてるのか貶されてるのか、判断不能。

でもその言い方、なんかちょっと嬉しかったのも事実だった。


 


彼女がぽつりと言った。


 


「これは、開戦のゴングかもしれませんね。」


 


「なにと、戦うんだよ?」


 


「あなた自身、かもしれません。あるいは、青春そのものかも。」


 


言って、彼女は静かに目を閉じた。

その表情はどこか、合図を待つファイターのようにも見えた。


 


――Bout。試合。

――Boot。起動。


 


その時の僕には、まだそのふたつの単語の意味を、深くは理解できなかった。

でも今なら、わかる。


 


あのとき。

あのひとことで、僕の中の何かは、確かに“起動”したのだ。

体育館の空気は、まだ冷たかったけど、

僕の鼓動は、もうとっくに温まっていた。


📝 エピソード語注

Boot(ブート):コンピュータを起動する行為。“動き始め”の象徴。


Bout(バウト):格闘技などの「一戦」。“青春”を試合にたとえた比喩。


bpm:beats per minute。音楽や心拍数で用いられる単位。


AIベースの会話生成実証個体:実際に存在する対話AIの研究プロトタイプ風の表現。


応答速度:人間とAIが会話する上で、反応の“速さ”や“的確さ”を示す言い回し。


🎧 次回予告:第2話「バッファローでチルい」

「急がなくていいんです。

バッファ(遅延)にも、意味があるって、最近わかってきたんです」


通信遅延、思考の“間”、SNS返信が止まる沈黙――それらは全部、彼女にとっては《余白》。

次回、ヒナタとアイの“言葉の速度差”が生む、静かでチルい午後の回。

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