親からの虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会って“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語
喜多里夫
プロローグ あの日、ぼくは一度死んだ
その日、東京は季節外れの雪が降っていた。
3月10日、T大の合格発表の日。春が近いはずの空から、白い粒が静かに舞い落ちてくる。
12時前。赤門の前には、傘を差した人の波。掲示板を取り囲むように、ギュウギュウに詰まった人だかり。親と一緒に見に来ている人も多い。合格者の受験番号は公式Webでも発表されるが、出来るなら本郷キャンパスで掲示を見たいものなのだろう。
誰かが歓声を上げた。「あった!」「やった!」と叫ぶ声。スマホで掲示板を撮る人、泣きながら家族に電話をかけている人。
一方で、無言でその場を離れていく人もいた。顔をこわばらせて、うつむいたまま。
ぼくは、そのうちの一人だった。
目で追っていた受験番号の並びに、自分の番号はなかった。何度見返しても、そこにはなかった。
「やっぱりダメだったか……」
まるで「不合格」を確認しに来たみたいなものだ。
雪が視界を曇らせていたのか、自然と目頭が熱くなっていたのか、よくわからない。
父の顔が、ふと浮かぶ。
――何て言えばいいんだろう。
電話口の向こうで、父はきっとこう言うだろう。
「期待を裏切るなんて、この親不孝者めが」
「T大理Ⅲに合格しなきゃあ、お前の人生終わりだ」
「死んでしまえ! 二浪までしたクセに!」
そのどれを想像しても、吐き気がした。
――ぼくは、このままT大理Ⅲに合格するまで、何年でも父に受験させられるのだろうか?
寒さは感じなかった。むしろ、何も感じなかった。ただ、雪の舞う街をぼくはフラフラと歩いた。
駅に向かう足は自然と
そのとき、肩が誰かとぶつかった。
「はぁ? おい、こら、てめえっ! どこ見てんだよ、ボケッ!」
跳ねるような金茶色の髪。ピアス。大きめのダウン。目つきの鋭い女子――たぶん、ぼくと同じくらいの歳か、少し下か。
彼女は派手な見た目ときつい言葉に反して、どこか哀しそうな目をしていた。
彼女だけじゃあない。
路上ですれ違う人の多くが、そんな目をしていた。哀しい目をした人たちの群れ――。
ぼくは、こんな世界で、もう生きていたくないと思った。
いつの間にか、日が暮れていた――。
雪はやまない。街灯に照らされた白い粒が、静かに、しかし無慈悲に降り積もってゆく。
14階建てのマンションの屋上。凍えた鉄扉の向こうには、足場のない夜空が広がっていた。冷たい風がフードを煽り、耳元で誰かの声のように響く。
全身が鉛のように重かったが、呼吸だけは異様に浅い。
足元に目をやれば、薄く雪の積もったコンクリート。その下には、光る街と小さな人間たち。この世界に、自分の姿がない未来を、想像してみる。
スマホの画面が灯る。
ニュース速報。「女子大生、樹海にて遺体で発見される。遺書には“誰にも助けを求められなかった”と――」
心臓が締めつけられた。名前は出ていない。けれど……。
――誰も、助けられなかったんだな。その子も、そしてぼくも。
屋上の縁に足をかける。風が強くなった。下から吹き上げるように冷気が頬を撫で、視界がぼやけた。
最後の一歩を踏み出す、その時。空間がグニャリと歪んだ。
――カチリ。
目の前にあったはずの夜景が、突然闇に沈む。落下する感覚。けれど、なぜか痛みはなく、ただ――白い光だけが、瞼の裏を照らしていた。
「……うっ、嘘……だろ?」
ぼくはベッドの布団の中で、汗だくになって跳ね起きた。
見慣れた天井。暖房の音。カーテンの隙間から、灰色の冬の空がのぞいている。
机の上のカレンダー。マジックで赤く囲まれた日付は2月5日。国立大学二次試験の出願締切日だ。
そして、部屋の時計は、1月30日午前6時28分を指していた。
ぼくは、まだボォッとしている頭で思った。もしかして――タイムリープ!?
いやいや、そんなはずはない。タイムリープなんて、ありえない。
「……ない、そんなもの、物理的に説明がつかない」
言うまでもなく、時間は不可逆なものだ。
エントロピーは減らないし、過去に干渉すれば因果律が壊れる。
そんなことは、物理の教科書を開けばすぐにわかる。
だが――。
確かにさっきまでは3月10日だったはずだ。マンションの屋上にいたんだ。
それが今は1月30日。自室のベッドの上にいる。
これは夢なのか? 奇跡なのか?
それとも、未来を変えるチャンスなのだろうか?
あるいは、何かをやり直すための残酷な罰か――?
震えている手を見つめながら、ぼくは思った。
ぼくの人生は、まだ終わっていなかったんだ!
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