見下ろされる世界(SF・近未来風)
桶底
第1話 塔の見える朝
――目覚めと共に、支配の風景はまた始まる。
昨晩の突風は、とうとう壊れかけの窓を吹き飛ばした。雨は遠慮なく部屋に入り込み、床の傾斜を伝って低いところに水たまりを作っていた。
だが、奇妙な幸運もある。脱ぎ捨ててあった学生服は、たまたま床の高台に乗っており、濡れているのは裾の一部だけだった。袖を通すと、少しだけ湿り気を感じるものの、着るには差し支えなかった。
開け放たれた窓から、朝の空気が流れ込み、遠くには街の中央にそびえる塔がよく見えた。
あの塔は、雲を突き抜けてなおその先を目指す。
“死んだ人間は、あそこから天へと昇る”――誰もがそう教えられて育つ。
鞄を探すと、水没していた。持ち上げても、ぐにゃりと歪み、水を垂らすだけ。乾かすにはしばらくかかりそうだが、この部屋には陽がよく差し込む。きっと帰る頃には乾いているだろう。
鞄を置いたまま、身軽さを味わいながら、数歩で往来に出た。足取りは思いがけず軽く、気づけば駅へ向かう道を快活に歩いていた。
この貧民街には、時折、妙に豪華な料理が飾られる。光沢のある果実、香辛料の香る肉料理、どれも現実味がないほど美しい。
だが、誰もそれに手を出さない。それが“罠”であることを、皆が知っているからだ。
けれど時には、空腹や衝動が理性を超える瞬間がある。
誰かが笑みを浮かべながら、皿の上の料理にかぶりつく。次の瞬間には、治安省の職員が現れ、その人物を引きずって行く。
“価値あるものを金銭を持たずに消費した”――それは盗みであり、罪だ。
この街の法律は、動機も環境も問わない。結果だけを裁く。
罪人は、神々が生贄を求めたとき、塔へと捧げられる。それは「偶然」ではなく、「供物のために罪人を作る装置」があるのだとしたら――。
そう考えることすら、住人にとってはもはや意味がない。この現実を生きるしかないのだから。
街には福祉制度も整っている。
病気になれば、誰だって病院にかかることができる。病気が治る限りは、きちんと処置され、退院も許される。
だが、もしも“治らない”と判断されたときには……。
その人は、天への供給源として、神々へと送られる。
労働者たちは目を赤くしながら働いている。「もっと眠れるのに」と呟く声が、あちこちから聞こえる。疲弊すれば病院へ送られ、処理されるか、あるいは戻されるか。その結果を直接聞いた者は、誰もいない。
――働くとは、いったい何だろう。
努力しても報われず、作ったものは他人の手に渡る。贅沢な商品をつくっても、それは労働者自身の暮らしを豊かにはしない。
神々のために捧げる品々のように、自分たちの手から離れてゆく。ならば労働とは、まるで“神への儀式”なのかもしれない。
「もっと食べられるだけどなあ」
通りすがりの子供が呟いた。
働き方も、金の価値も知らない子供にとって、欲望と現実の距離は果てしなく遠い。教育は義務とされているが、それが何の役に立つのか、誰にも説明できない。ただ神を信じて従うしかない。それが、この街の生き方なのだ。
駅舎に着くと、人の波に押されるように電車へ乗り込んだ。
走り出して間もなく、急ブレーキ。爆発事故――放送が伝える。
誰かが火薬を持ち込み、自爆したのだという。
よくあることだった。もはやニュースにもならない。原因を探す者もいない。
人々は死の背景よりも、残された者の感情に寄り添う。爆破の動機よりも、「誰が死んだか」に注目する。
だが、仮に犯人が分かっても、それが「野蛮な奴」だったという情報以上に、深く踏み込むことはない。全体の感情が怒りに染まれば、それで終わる。
鉄道会社は手馴れた様子で対応し、数時間で運行が再開するという。
死もまた、“燃料”として計算に入れられている。
むかし存在したという「平等なくじ引き制度」――誰もが神々への供物となる契約――それを知る者も、今はもういない。
だが、死はなおも近くにある。
いつ取り立てられるかわからぬ“借金”のように、それは静かにこちらを見ている。
「……神が命を与えたように、それを奪う仕事も、神が与えたんだ」
死神が現れるとしたら、きっとそう言うのだろう。
誰にも抗えぬ終わりを待つこの閉ざされた空間で、ただ遠くの闇を見つめることしかできなかった。
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