第5話 還流
四時半。
金属の巻き戸がゆっくりと持ち上がる音がして、地下鉄の入り口が口を開いた。
それを見届けるようにして、スマホの画面がすっと暗転した。
役目を終えたように、力を失って沈黙する。
僕はそのまま地下へと足を運んだ。
足元はふらつき、視界はぼやけていた。
改札にICカードをかざすと、冷たい拒絶の音が響いた。
残高不足。
券売機にカードを挿し、財布から紙幣を突っ込む。
それだけの動作にすら苛立ちと虚しさを覚えていた。
改札を抜け、ようやく安心したのか、体は次の不快を思い出す。
僕はトイレに入り、便器に向かってまた吐いた。
だが、もう吐き出せるものはほとんどなかった。
それでも体はけいれんのように何かを絞り出そうとし、
便器はそれすらも無言で流していった。
僕がこの場所に残したものは何一つなかった。
すべては水に押し流され、痕跡さえも残さず、
どこかの暗渠へ消えていった。
鏡に映る自分の顔は、ただの疲弊そのものだった。
腫れぼったいまぶた、荒れた唇、力の抜けた目元。
それを眺めても、何の感情も湧いてこなかった。
やがて電車がホームに滑り込んできた。
定刻通り。
もちろん、僕が何をしていようと、それは変わらない。
時刻表は揺るがず、車輪は回り続ける。
僕はふらりと乗り込み、硬いシートに身を沈めた。
電車は静かに発車し、何事もなかったかのように進み始めた。
眠っていたのかもしれない。
気がつけば、大学の最寄り駅に着いていた。
まるで瞬間移動のように。
地上に出ると、どこかへ立ち寄ることもせず、
僕は大学に向かった。
そこに何かがあるわけではない。
救いがあるとも思えなかった。
でも、僕が“いられる場所”と呼べる唯一の場所が、そこにはあった。
空はよどんだ雲に覆われ、まだ夜の名残をとどめていた。
さらに暗くなるような、そんな色だった。
古びた商店街をすり抜ける人々が、やがて駅舎に吸い込まれていく。
彼らの姿は、酔いが残った僕の目には、まるでコマ送りの映像のように見えた。
キャンパス内の時計塔が、開館まであと二時間を示していた。
ベンチに腰を下ろし、少しでも体を休めようとする。
だがすぐに、制服姿の警備員が近づいてきた。
「ここで寝られると困るんだけど」
「あ、すみません」
彼の笑みは、不敵だった。
「飲んでるよね。うちの学生?」
「……あっちの方から来ました」
「そう。とりあえず、どいてくれる?」
彼はいくつか嫌味を言い残して去っていった。
残ったのは、またしても居場所を奪われたという感覚だけだった。
僕は大学内をさまよい、裏手の柵をよじ登って、部室棟のトイレへ潜り込んだ。
そこは、人目に触れず、鍵もかけられ、無料で眠れる場所だった。
たった一時間でも休めれば、それでよかった。
緊張が解けると、意識がにじみ出し、
思考は形を失いながら、静かに深い眠りに沈んでいった。
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