Fiat Lux.

まくつ

満月、昇った。

「世界は明日終わるよ。だから私が、君を幸せにしてあげる」


 天上から舞い降りた気まぐれな天使は、襤褸切れのような少年に、甘く蕩ける声で囁いた。



 ***



 割れた爪の隙間は醜く膿んでいた。薄暗い牛舎、氷のように冷えきった手を力なくだらりとぶら下げて、少年は積み上げた牧草の山にその身体を委ねる。隣で聞こえる牛の息遣いと糞の臭いはひたすらに不快で、けれど少年にとってそれは日常で、眠りを妨げる要因には成り得ない。

 その少年は、到底人間とは思えぬ様相だった。汚れ、傷つき、最早死人と言った方が適切に思えるほど。与えられる食べ物は腐りかけの残飯だけ。湯浴みなど許されるはずもなく、厳冬の下で零度の井戸水を被って、辛うじて身体に付いた土を落としていた。纏うのも、小さな布を辛うじて繋ぎ合わせただけの粗末な代物だった。


 蒼い目をしたその少年は、奴隷だった。


 蒼の民——被征服民ヘイロータイ。それは尽きることのない労働力だ。減ったならば、また補充してしまえばいい。そんな風に扱っても誰も咎めないほどの存在。少年はこの世界において所詮使い捨ての消耗品で、だから誰も少年のことなど気にしない。

 畜生のように酷使され続けるか、あるいは死ぬか。選択の余地などない二者択一。後者を選ぶ踏ん切りはつかないまま、今日も少年は一日を終えようとしていた。

 思考は無駄なことだ。絶望したって腹は膨れない。ただ体力を回復するため、汚物と言っても差し支えない飯を腹に流し込み、ひたすら横になり目を閉じる。せめて苦しみを忘れるために。そんな日々を、少年はずっと過ごしていく。そのはずだった。


 そのはずだったのに。


「私は天使。私が特別に、君のことを助けてあげる」


 声がした。光が差した。それは途方もなく眩い、直視すれば目が潰れてしまうのではないかと思うほどの代物だった。

 聞こえたのは『助けてあげる』という言葉。救世神話というのは、少年も幼いころに聞いたことがあった。別の場所で奴隷として働いていたころ、戦争を知る老人が少年たちに語っていたことだ。


 ――今は試練の時だ。いつか神が我々をこの地獄から助けてくれる。


 老人が決まって語るのは、蒼の民が栄華を極めていた頃の御伽話。天使の力で永遠にも思われる繁栄を成した話と決まっていた。幼い少年は目を輝かせてその話に聞き入り、必ず訪れる救済を切に渇望した。

 時間は流れ、救済は訪れぬまま、その老人は鞭に打たれてあっさり死んだ。それきり、少年は世界に期待することを捨てた。


 この光も神話と同じ、夢のようなものだろう。疲れているから、昔の淡い記憶が蘇っているだけだ。そう判断して、少年は再び目を閉じる。けれども、光は一層強く瞬き、少年の意識を現実へと引き戻した。


「私の存在が信じられない?」


 ぺちぺちと頬が叩かれて、少年は渋々目を開く。そこには一人の少女がいた。

 白い装束を纏った、美しく、可愛らしい、少女である。虹のような色彩を宿した瞳が少年をじっと見つめる。金の髪からは柔らかな光が零れ、この世のものとは思えぬほどの威容を放っていた。そして、その少女の異質さを決定づけるように、背中には巨大な白い一対の翼が。


「私は天使。優しくて素敵な、かみさまの使徒」


 まるで歌うように透き通った声で、少女は高慢に囁いた。それは余りに美しく綺麗で、ただそれだけでこの少女は天使であるのだと、少年は理解する。


「優しい私が、世界が終わる前に、君の願いを叶えてあげる。どんな願いも必ずね」


 天使は笑って少年に手を差し出した。少年はその手を取るべきか否か逡巡し、おもむろにその手を握った。けれども天使を名乗る少女が言うことなど、微塵も信じてはいなかった。

 どうせこのままではいずれ死ぬ。近いうちに必ずという確信があった。それなら、この無茶苦茶な誘いに乗るのも一興。そう思った。ただそれだけだった。

 そんな空虚な少年の内心を見透かしたかのように天使は頷くと、ぐいと力強く少年の手を引っ張り、その瘦せこけた身体を助け起こす。そうして、やはり底知れぬ顔で、笑うのだった。


「さあ、行こう」


 月明りの下、静かに時は動き出す。


 二人きり、一夜限りの逃避行へと。



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