月の光はレモンの香り

ヤマメさくら

第1話

「一緒に帰ろうか」

 二人きりの教室で、僕は山下さんに言った。

 コートの袖に腕を通していた山下さんは、驚いたように目を見開いた。

 僕たちは追試を受けていたのだ。その教科で赤点を取ったのは僕と山下さんの二人だけ(クラスで、だけでなく、学年で、でもあった)。僕はそこまで苦手な教科ではなかったけれど、ささいなミスをしたり、答えを書く場所を間違えたりしてしまったから。

 山下さんは高校入学当初から、いつも学年でトップクラスの成績だから、赤点なんて、クラスの連中には驚天動地の出来事だった。ただ、本人は、あのとき頭痛がひどくて、と友人たちに冷静に説明していた。

 僕と山下さんが追試を待つ二年一組の教室に、急用があったとかで先生は遅刻して現れた。おかげで教科書やノートを見直す時間が十分に取れたわけだけれど、終了したとき、外はすっかり夜になっていたのだった。

「うん、そうする」

 コートのボタンをとめながら窓の方を見たあと、山下さんは僕に向かって言った。

 僕と山下さんはそれほど親しくない。教室で僕の席が山下さんのななめ後ろ、目が合えば朝の挨拶をする、という程度の関係性だ。それでも、暗い夜道を一人で歩くより、よく分からないクラスメイトでも一緒にいてくれた方がいいと判断してくれたのだろう。

 山下さんが首にマフラーを巻くと、僕たちは電気を消して教室を出た。


 駅までの道を、僕たちは歩いた。同じ方向に進む、部活終わりの生徒たちがいたけれど、数は少なかった。

 僕たちに、大して話題はなかった。あの問題難しかったね。先生なんの用事があったんだろうね。もうすぐ冬休みだね。来年の今ごろは受験だね。

 そういうどこか礼儀正しい会話を続けているとき、自販機の前を通った。

 自販機側にいた山下さんが、そっちを見た。

 僕も見た。

 山下さんがこっちを向いた。

「あ。飲む?」

 立ち止まって、山下さんがかすかにほほ笑んで言った。

 僕も立ち止まったけれど。

「いや、僕は。山下さんが飲むなら……」

「ううん、別に、いらない」

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 僕たちは歩き出した。


 山下さんが赤点を取ってしまった理由を、僕は知っている。

 山下さんの後ろの席の田中が、テストが始まる前、その後ろの友人にささやいたからだ。

「つき合うことになった」

 本当に本当に小さな声だったけれど、僕には聞こえた。山下さんにも聞こえた。

 山下さんは田中が好きなのだ。山下さんは田中が後ろにいるとき、いつも緊張している。プリントを後ろに送るとき、後ろから送られて来るとき。田中が僕や山下さんを含む周りに、オハヨウ、と言って、首を軽く回してそれに挨拶を返すとき。田中が笑うとき。田中が何を考えたのか、ため息をつくとき。山下さんの背中は、田中に集中している。

 山下さんは田中と、あまり会話をしない。僕に対してと同じぐらいの距離感。だからこそ、背中はあんなにも集中している。

 それに気づいたときから、僕は山下さんが気にかかっている――好きだ、という感情なのかは分からないけれど。

 気になって。

 山下さんの横顔が。

 答案を見つめている目が潤んでいる気がして、気になって。

 僕は試験に集中できなかったのだ。


 田中が誰とつき合っているのかは分からない。校内で、田中と誰それがつき合い始めたという噂は聞かない。もしかしたら相手は、他校生か、案外年上の女性かもしれない。

 田中は顔が良くて、背が高くて、爽やかで。

 夏はレモン飲料をよく飲んでいた。

 その行為が自分に似合うことを、よく分かっているみたいに。

 席にいないとき、机の上に置きっ放しだったそのペットボトルが、窓からの陽光できらめいて、さらに田中の爽やかさを倍増させていた。


「一緒に帰ってくれてありがとう」

 もうすぐ駅というところで、山下さんが言った。ぼんやりと。

「うん、いいよ」

 僕の返事もほぼ上の空だ。

 山下さんの視線が、夜空の月に向いていることに気づいていたから。

 あの自販機に、田中が良く飲んでいたレモン飲料があった。

 ペットボトルの蓋を開けたときの、一瞬鮮やかに広がる爽やかなレモンの香りを、僕だって思い出したんだ。

 山下さんも思い出しているのだろう。


 月の光とあの香りは、哀しいほどに調和していた。


                       終わり

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