【過去編】その温もりで息をする。
「はーやまくん。先に帰るなんて酷いじゃあないか。もう少し待っていておくれよ」
「待つわけがないだろう。待っていたらお前との友好関係が露呈する」
ある涼しい秋の日。沈みゆく陽が緋く照らす小道に、三角帽の影が二つ連なっていた。
ひぐらしと烏の声が影を追ってついてくる。時差強く吹く風が隣の彼の黒い長髪を揺らすと共に、どこかの家からレコードの音色を運んできた。
「ふざけてばかりいるお前とこの俺が友人だなんて知られたらたまったもんじゃない」
「……まぁ、それはそうか。ごめんよ、模範生くん。元々会話は帰り道と家だけって条件だったのに」
「分かっているなら学校の近くで話しかけるな」
「悪かったよ、でも君ともっと話したいんだ。葉山くんは俺と唯一対等で話してくれる人だから」
葉山がちらと視線を隣に向けると、そこには寂しげに俯く友人の姿があった。少しだけ揺れる胸に知らないふりをして、歩き続ける。
「帰ればいくらでも話を聞くから。だからそんな顔するなよ。尾崎はずっと笑っていればいい」
「……ふうん。君は、なかなかずるいことを言う」
葉山の言葉に、彼は頬を染めて外方を向いてしまった。二人の間には沈黙が流れ、気恥ずかしくなった葉山は無言のまま足早に家を目指した。
玄関の戸を開けて、薄暗い室内へただいまとこぼす。誰もいないけどな、と苦笑いすれば、隣から「いいじゃあないか。花に挨拶でもする気持ちで」なんて肯定の声が注いだ。
「尾崎。今晩は魚だがいいか?」
「もちろん」
いつも通りの変わらない会話。毎日この時間に繰り返す何気ない言葉に、今日は彼の眉が動いた。
「ねぇ葉山くん。その呼び名、変えてほしいのだけど」
「は、なんだ急に」
「前々から思っていたんだ。周りの連中と同じ呼び方は、嫌で」
「……そうか。じゃあ、綾、瀬」
「うん。あ、俺も変えたほうがいいか。実弘くん?さねくん?」
「……いや、俺はそのままでいい」
「なんだい、皆目つまらない。お堅いよ、葉山」
突然呼び捨てられた名に驚く。綾瀬はニヤリと笑っていた。
『俺の家に来ればいい』
数ヶ月前、葉山は綾瀬を家へ招いた。医者の名家の後継という役目を背負わされていた綾瀬は、父親に反発して家を飛び出し帰る場所を失くしていた。公園で夜を明かしていた彼を偶然見かけた葉山は会話の中で彼の裏を知った。普段たくさんの友人に囲まれて楽しそうに見える彼の生活が、常にその爵位と名家の姓へのごますりに耐える空虚なものであったこと。彼がずっと空っぽの友好関係に傷ついていたこと。そこから葉山の綾瀬を見る目は変わった。ちゃらんぽらんでお気楽な奴だとばかり思っていた彼の、本当の姿を見てみたいと思ったのだ。
『葉山実弘くん。君の前では、尾崎の姓は無力になれるだろうか』
その言葉が、綾瀬から届いた『友人になりたい』という願いだった。
それを条件付きで了承して、今に至る。
上京して来た身の上の自分は、この家に一人だった。それ故に住人が増えたところで特に問題はなかったのだ。
「梨も出そう。お前、果物好きだろう」
「いいのかい、嬉しいよ」
綾瀬は棚からナイフを取り出して、受け取った梨の皮をくるくると剥いていった。
「夕暮れに仰ぎみる輝く青い空 日が暮れてたどるは〜」
無意識に綾瀬が口ずさんだ歌に、葉山が「我が家の細道 狭いながらも楽しい我が家」と続ける。
「君、知っているのかい」
「この間出た二村の歌だろう。そのくらい知ってる。レコードは買っていないがな」
「想定外だな、知っているとは思わなんだ。……二人で歌うと、楽しいものだね」
「はは。まぁ、そうだな。悪くないよ」
緋色に染まった台所に二人の笑いが弾む。穏やかで、和やかな時間だった。
「布団敷いたぞ。夕飯を作るから、それ切り終わったら言ってくれ」
「分かった。じゃあ俺は終わったら風呂を沸かすよ」
ここに来て初めて与えてもらった、当たり前の人間の営み。自分の屋敷には、医学にしかまるで興味のない父親とそれに付き従う女中たちがいるばかりで、自室にはいつも一人だった。定められた将来のために専ら机に向かって勉学に励むばかりの、冷たい、凍えそうな場所。でも、この家は違うのだ。
「綾瀬。今度の休み、明治座にでも行かないか」
「あぁ、今年移転されたのだっけ。それは是非とも」
この家には温もりがあった。綾瀬に温もりを与えてくれる存在が隣にいた。
毎日一緒に起きてご飯を食べて、家を出て学校へ行って。授業が終わったら一緒に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、寝る。学校では友人関係を隠して関わらないことも、ある種二人だけの秘密のようで綾瀬は存外嬉しかった。
毎日他愛のない会話をして、なんでもないことで笑って、一緒に日々を過ごしていける友人。綾瀬は葉山にだけ自分を曝け出すことができた。家族にさえ見せなかった一面も、思いも、全て。
そして、それは葉山も同じだった。学校では隙を見せず、完璧であろうとする模範生。彼が笑うのは、綾瀬の前でだけなのだ。
二人の中で、互いの温もりはいつしか安心できる大事なものへと変わっていった。
彼らは今日という日を互いの温度で生きている。
激動の時代が十五年で幕を下ろしてから、早数年。とある家の屋根の下、学生二人、綻ぶ頬。
二人は心の内で、互いを唯一無二の親友と呼ぶ。
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