拝啓、夏に隠れた届かない君
唯一無二の、親友がいた。互いが互いだけを頼りにしている。そんな関係性。
一つ屋根の下、共に暮らして、共に生きていた。朝、彼の見送りと共に仕事に出て、稼いで、帰ったら風呂に入って、彼の作ったご飯を食べる。そして、同じ家の中で眠る。楽しみも喜びも、悲しみも苦しみも、一緒に乗り越えてきた。そんな親友。
『尾崎の一人息子が死んだ』
寒さの厳しい、年の瀬だった。親友が、死んだ。自分から掴み取った選択だった。
「綾瀬が死んだ。綾瀬が死んだ」
秋の終わり、彼は自分と共に住んでいた家から、彼自身の実家へと連れ戻された。否、力づくで連れ去られた、の方が正しいかもしれない。
医者の名家の一人息子だった彼は、後継のために望まない未来を強いられている。それは知っていた。医者になりたくないと、彼の口から何度も聞いていたからだ。
彼が連れ去られたのは、これが初めてではなかった。大学時代にも一度同じことがあって、その時はなんとか家から抜け出して来た彼を連れて、自分は長い逃避行に駆け出した。その逃避行が成功して、こうして大人になるまで生きてこられた。実家の人間に見つからずに、平穏に生きてこられた。
でも今回は、駄目だった。彼は抜け出すことができず、自分も助けに行くことができなかった。そうして、ついに、こんな結末がやってきた。
「この傷さえなければ、きっとっ……!!」
夏、自分は身体に怪我を負った。そのせいで病床から起き上がれず、親友の元に駆けつけることができなかった。こんなものさえなければ、助けられたかもしれない。自分が憎くて憎くて、しょうがなかった。
「ああ……。お前がいないのに、世は明けてしまうよ、綾瀬。……新しい年なんて、来なくていいのになぁ……」
お前のいない一年が始まる。家に、一人ぼっちの一年が。
動けない身体を、必死に動かそうとする意味はなんだろう。なんのために、誰のために、病床で足掻いているのだろう。もうなんの意味も無くなってしまったよ。
神よ。答えてくれ。どうして、こんな不幸が畳み掛かるんだ。どうにかして、変えることはできなかったのか。
彼は、自室で死んでいたらしい。食事を届けに来た女中が発見したんだとかなんだとか。ああ、どうにか。どうにか、やり直すことができたなら。彼の笑顔も居場所も安全も、守ってやれるのは自分だけだったのに。
どんな方法でも構わない。神様でも、悪魔でもいい。どうか一度だけ、機会をください。
俺に、彼を、助けさせてください。
・-・ ・--・ ・・-- --・・- -・・- ・-・-- ・・
ミン。ミン。じわり。じわり。
茹だるような、蝉時雨。この世界の夏は、どうにも耐え難い熱を放っている。
頬を伝って垂れる汗をぐいと拭って、扇風機の前に座り込み、風を享受する。
なんとか、まだ使い方を心得ている代物があってよかった。このエアコンという物もボタンを押せば稼働するらしいが、機械に疎い自分には未だによく分からず、使うことができないでいる。
「暑いな……」
ここに来て、実に二週間。外出もろくにできない自分は、このアパートの大家からもらった食料だけを食い繋いで生きていた。もう、ずっとこの部屋に閉じこもっている。
二週間前、自分はいたって普通に、朝に家を出て、職場へ向かっていた。けれど気がついたらなぜか、この世界にいた。このアパートの大家が、道端に倒れていた自分を見つけてくれたらしい。行き場のない自分に食料と衣服、そして金銭を与え、こうして空き部屋に住まわせてくれている、まさに聖人のような御仁だ。
命の恩人、そう呼んでも過言ではない。
自分が生きていたのは、この世界にとっては昔の時代らしかった。見せられた新聞に二〇二五年八月十二日とあるものだから、自分は何度も目を擦って確かめた。けれどもその文字列は確かに、自分が知っている世界からまるまる九十二年の月日が経っていることを示していた。
「様変わり、とはまさにこのことだな」
ベランダに出て、景色を望む。
見たことのない程高い建造物が埋め尽くす街、走る車、空を飛ぶ航空機。
発展した日本の姿は、あの時代の大人たちに予想されていた物とはかけ離れているように思える。富士山から火星に行けるだとか、英語が公用語になるだとか。
ああでも、航空機が軍事用だけではなく旅客用にもなる、というのは的中しているか。珍しかった航空機が、今ではごく普通に空を横断しているのだから。あの頃は、一人のパイロットが岐阜から東京へ飛んだとか、新聞記者が試乗体験をしたとか、それだけで報道になったというのに今では大勢を乗せて海の向こうにも簡単に届けてしまうだなんて、まったく、世の技術者には頭が上がらない。
「この時代で生きていたら……どうなっていただろうなぁ」
ここに来てすぐ、帰り方を探して大家にあちこち連れて行ってもらった。
どうやら大家は大変な歴史好きらしく、身なりや持ち物から推察して、自分が昔の世界から来たということに気づいているようだった。それだから、ゆかりある場所へ行ってみてはどうか、と問われ、同行してもらったのだ。
『ゆかりのある場所……ですか』
『そうそう。学校とか、職場とかね』
『それじゃあ、銀座へ行きたいです。銀座の百貨店なのですが……』
思いついた場所は、三箇所だった。その中でも、自分は真っ先に職場を選んだ。
出勤途中にここに来たのだ。もしかしたら何か分かるかもしれない、と小さな希望を持っていた。
『おお、葉山くんはデパートで働いていたのか!』
『は、はい。外商をしていたんです』
『綺麗なスーツだものね。葉山くんのそれ。いいお仕事だろうとは思っていたけど、まさかデパート勤めとはね……!あぁいいなぁ。ロマンだなぁ』
『浪漫……?』
自分の薄茶のスーツに百貨店外商の仕事。それはもう浪漫だとかなんだとか、色々言われて感動されたのを覚えている。
『着いたけれど……どうかな?何か分かることとか……』
『これは……』
目の前には、全く知らない世界が広がっていた。
大きいシャンデリアのような模様が刻まれた外装、そしてその下に鎮座するライオンの像。
そのどれもが知らない物で、自分の知る物の形跡はほとんど見当たらなかった。ここが慣れ親しんだはずの銀座であることを忘れてしまいそうになるほどに、どこもかしこも様変わりしていてまるで分からない。
『何も……』
『そうか……じゃあ次、行ってみよう』
次に向かったのは、自分の家だった。自分はそこで親友と共に暮らしていた。職場よりもこちらの方がもしかすれば、という期待もしたが、それは切なく崩れ去ってしまった。
家は、どこにも姿を残していなかった。少し広めの一軒家。親友と共に生きた家は、全く別の建物になっていた。
『ここも、駄目か……』
『他は?どこか』
『……東京帝大へ、行きたいです』
自分にとっては、そこが最後の希望だった。東京帝大。自分と、あいつが出会った、最初の場所だ。
『あぁ、帝國大学か。そこの卒業生なのかい?』
『はい、そうなんです』
『何学部だったの?』
『最初は、法學部です。二年に上がる時に転科して文學部に入りました』
『そうだったのか』
到着したのは、大学の正門前だった。懐かしい冠木様式の門を前に、自分は声もなく立ち尽くした。知っている物がそこにあるだけで、泣けるほどに嬉しかったのだ。
『ここ、今は名前が変わって、東京大学というんだ』
『え、そうなんですか』
『東大東大って、皆言うんだよ』
『そうなんですね。俺たちの時も、帝大帝大って言いました。略するのは変わらないんですね』
そうやって笑うことができたのも束の間、この場所にも見当たらない手がかりに、自分は落胆する他なかった。
その日はもうそのまま帰ってきて、そして、今に至る。
あれ以来自分は一度も外に出ていない。大家と共に電車に乗ったあの日、切符を買うことにさえ戸惑い、改札にも戸惑った。機械化された現代の日常は、自分にはとてもじゃないが自由に散策することは不可能なものだった。
「本当に暑いな、この時代の夏は……」
ベランダから引っ込んで、冷蔵庫に飲み物を取りに行く。
この冷蔵庫だって、今や一家に一つあるのは常識らしい。自分が知っている冷蔵庫は、開発されたばかりで普及など考えられもしない魔法のような物だ。こうしていつでも冷たい飲み物が手に入るのだから、現代は便利でいいなと思う。
「汗が止まらないな……どうしたら……」
自分の後ろには、大家がくれた現代の衣服が、まだ形を崩さずに積んである。
あれを着れば、きっと幾分かは涼しいのだろう。けれど、自分はまだそれらに手をつけられないでいた。
現代の服を着てしまったら、この時代に染まってしまう気がしたのだ。もう、元の時代には帰れない気がした。だから、着ない。
自分は今あるこのシャツとスーツを、洗って干して、着て。それを繰り返していればいい。
「綾瀬……」
自分には、絶対に帰らなければいけない理由が、絶対に帰りたい理由があった。
会いたい人がいるのだ。守りたい人がいるのだ。
元の時代に、あの家に、親友を残してきた。彼は、俺が守らないといけない人だ。俺にしか、守れない人。
彼は、ずっと追われている。もし自分のいない間に何かあったら?そう考えただけで気が狂いそうになった。いつ、あいつの身に危険が迫るか分からない。一刻も早く帰りたい。それが、自分のどうしようもない本音だ。
しかし、その本音の前には、立ち塞がる壁が大きすぎる。どうやって帰るのか、そもそもどうやってこの時代に来たのか。現代に来た意味は?何も、分からない。
未知の土地で、一体自分はどうすればいいのだろう。
「……散歩くらいなら、俺でもできるか」
現代の文明にはまだ追いつくことができない。それでも、このアパートの周りを散策するくらいなら自分にだってできるだろう。
思い立ったが吉日、自分はそれを信じて立ち上がり、部屋を出た。
アパートの三階、三つの部屋が並ぶその真ん中に位置する自室を後にして、階段を降りる。汗でシャツが肌に張り付いた。今はジャケットもベストも脱いでネクタイも外しているが、それでもやはり暑さは変わらない。もうじき夜が訪れるというのに、この夏は暑さを収めることを知らないようだ。
「帽子でもあった方が良かったな、これは」
いつも被っているはずの帽子は、運悪く家に置いてきてしまった。
あれば少しでも日差しを避けられただろうか、などと叶わない思考を巡らせる。
「そういえばこのあたり、まだしっかりと見たことがなかったよな……」
以前は大家と話しながら歩いていたし、どうすれば帰れるものかと焦っていたこともあって、あまり周りをよく見ていなかった。帰る方法を探しているとはいえ、ここに住んでいる身だ。この際、しっかり見ておこう。
「……」
アパートを出てすぐ、向かいにある公園から子どもたちの遊ぶ声が聞こえてきた。
皆、楽しそうだ。駆け回って、笑って。平和の象徴。愛すべき時間。子どもが何も気にせずに遊べる場、笑える時代。素晴らしいことだ。
この光景を見たら、あいつは何て言うだろう。また、昔と同じように捻くれた言葉を寄越すだろうか。
「はぁ……まずいな」
この時代に来てからというもの、常に頭の中を占領するのはあいつのことだった。
尾崎綾瀬。自分の、たった一人の親友。
綾瀬と出会ったのは、東京帝大の文學部だった。俺とあいつは同じクラスだったが、模範生徒として評価を得ていた自分にとって、何人もの友人に囲まれてふざけて、教師すら軽くあしらってしまう彼は、親友どころか忌避の対象だった。
あんな奴がいるからクラスが乱れる。あんな奴と関わったら自分までおふざけの仲間だと思われる。本気でそう思っていた。
けれどある日、偶然、夜遅くにたった一人で橋から川を見つめるあいつに会った。厳しく何か言ってやろう、と声をかけてみれば、あいつは心底うんざりしたようにこちらを見て、言った。『お前はなぜ自分に話しかけたのか』と。ひどく、傷ついたような顔だった。
綾瀬は、世の中に名の知れ渡る華族の息子だった。尾崎の姓を聞いて知らない人間はいないほどで、普段彼を囲むクラスメートの全ては綾瀬自身ではなく、彼の持つ名家の姓に媚を売っていただけだった。
彼は、それを分かっていた。分かった上で笑ってあしらって、適当に流して、そして一人、疲弊していた。
彼の言葉に、自分は何も返さなかった。元より彼に興味はなかったし、名家の姓なんてものにも全く関心がなかった。それからなんでもない話を少しだけして別れた。
『葉山、実弘くん』
『尾崎。なんだ』
『……君は、尾崎の姓に興味、ないのかい』
『ないな。身分などどうでもいい』
『……はは、君は面白いな』
そして翌日、学校で彼から声をかけられたのだ。それが自分たちの関わりの始まりだった。
それから自分たちは表向きは交友関係を隠し、帰り道や放課後だけ話すようになった。普段ふざけているこいつと、模範生徒の自分が友人だと思われたくない。それが関係を隠す理由だった。今考えてみれば失礼な理由だが、何が面白かったのか、綾瀬は笑って了承してくれた。
話を聞いていけば、綾瀬の家……尾崎家は複雑で悪烈で、子どもを人形とでも思っていそうな家だった。そんな家の中で、決められた将来に背いた綾瀬は、父親に勘当され縁を切って家を出たのだという。
それでも、綾瀬は一人息子だ。縁を切ったとは言え、一人しかいない跡取りをそう簡単に逃したりはしなかった。
綾瀬は大人になった今もなお、家にその身を追われている。
追っ手から綾瀬を守る。絶対に連れて行かせたりなんてしない。
「帰りたい……。でもどうすれば……」
うんうんと頭を悩ませてみても、手がかりは何もない。
「ん……」
電車の音と共にほのかに香ってくるよく知った匂いに顔を上げれば、そこには海が広がっていた。
故郷金沢の海を思い出して、ふと懐かしい気持ちになる。第一高等に入るために上京してきた自分は、実に十年、海を見ていなかった。
心地よい波の音を聴きながら通りに沿って歩いていけば、図書館の庭に咲く大きな向日葵が目についた。夏を体現する花。太陽のような日の色の花弁が、生暖かい風に吹かれて揺れている。
うちの庭にも咲いていたな、と思い出してしまったら、美しいはずのそれも虚しく思えてきてしまって、無性に切なくなった。
うちの家の庭には、花が所狭しと植えられていた。四季に応じて色とりどり咲き乱れるその様はいつ見ても飽きることはなく、縁側に腰を下ろして一息つく際の楽しみにもなっていた。自分は特別花好きというわけでもなかったが、綾瀬はその反対で、自分が贈った銀の花瓶を磨いては花を挿し、磨いては花を挿し、を繰り返すほどの花好きだった。その所以でいつしか殺風景だった庭にも彩りが生まれたのだ。
「あぁ、向こうにも咲いて……ん?」
遠くで咲いていても目立つ花に気を取られて視線を送ると、花咲くその場所はどうやら病院の一画のようだった。病院も近くにあるだなんて便利な街だ、なんて軽いことを考えながら歩み寄ってみれば、目に入った看板の文字に、目を疑った。
『尾崎病院』
「尾……崎……?」
まさか。ここは。自分は無我夢中で病院に駆け込んだ。居ても立ってもいられない。けれど当然駆け込んだところで何かあるわけもなく、自分はすぐに挙動のおかしな不審人物に成り下がった。
「何かお困りですか?」
「あ、ええと、すみません。この病院の、尾崎と言うのは……」
「尾崎は院長の名前から取られたものですよ」
「院長……。あの、何か資料などはありませんでしょうか。調べたいことがあるのですが……」
入り口付近で狼狽えていると、通りかかった係の女性に声をかけられた。
尾崎の資料があれば、綾瀬に関する何かが載っているかもしれない。そう思って声にしてみると、彼女は院内の資料室に案内してくれた。さすが、名家尾崎の病院だ。院内に資料室なんて、よほど大きな病院でない限りあるものではないだろう。
「こちらになります。ごゆっくりとご鑑賞くださいね」
「ありがとうございます、助かりました」
彼女が部屋を出て行った後、自分はすぐに壁にかけられている年表に食いついた。
先祖代々、世襲制の尾崎の家系。その歴史は古く、江戸の終わりから続いている。
「綾瀬……!!」
年表。一九〇八年十月。そこには綾瀬の誕生が記されていた。
年表をなぞり、読み進めていく。幼少期のこと、学生時代のこと。そして、綾瀬の母親のこと。その全てが今、自分の指の先に綴られていた。綾瀬が生きた歴史は、こうして残っているんだ。
「え……」
瞠目。手が、震えた。一文字一文字を確かめるように、その文字列を指でなぞっていく。息が詰まる。
その文字たちが示すのは、一九三三年十一月のこと。自分たちがいた世界の、わずか三ヶ月後のこと。
綾瀬が、家に戻っていた。
あれだけ、必死に逃げ惑っていた相手の元へ。どうして。一体なぜ。また連れ去られたのか?また家を知られた?それとも外出中に見つかった?どうして、どうして。
頭をよぎるのは、かつてのトラウマ。もう二度と、繰り返さないと誓った日のこと。自分はあの日、覚悟を決めた。
『綾瀬!!綾瀬!!』
『葉山……!!』
『旦那様がお待ちです。帰りましょう、坊ちゃん』
あれは、大学時代のとある冬の日。自分の家に彼を住まわせていたことが知られて、尾崎の使用人が家に乗り込んできたことがあった。自分はろくな抵抗もできず、連れ去られていく綾瀬にただ手を伸ばすことしかできなかった。あの時の綾瀬の絶望の顔が、流された涙が、今もずっと後悔として自分の脳裏に焼きついている。
『葉山。家を荒らして申し訳なかった。でももう、それはないから』
その数日後、決死の思いで家を抜け出してきたらしい綾瀬が、再び家にやって来た。彼は家の前に立ち尽くすだけで中に入ろうとせず、別れの言葉を口にした。彼は一人、遠くへいく覚悟をしていた。誰も手の届かない遠くへ。逝く覚悟を。
明らかにやつれた顔で笑うその姿を見ていられなくて、あいつの腕を掴んで、一緒に逃げた。明日の学校のことなんて気にしなかった。模範生徒の称号も捨てた。綾瀬が死んでしまうくらいなら、自分の全てを投げ出せた。それほど、綾瀬に心酔していた。
綾瀬は連れ去られた先で、部屋に閉じ込められて大量の医学書と向き合わされたという。まさに地獄。自由を許さない環境。そんな場所、逃げて正解だ。
『綾瀬。今度は絶対、お前を連れて行かせたりしないから』
『本当かい?でも、それで葉山が危険になるなら、嫌だなぁ』
それ以来、大人になった現在まで追っ手の気配はない。今は大学時代とは違う場所に居を構えて、そこで生活していた。なのに……。
「また、守れなかったのか、俺は」
まだ。まだ何か、あるんじゃないか。一度抜け出してきた身だ。一度連れ去られても、綾瀬は諦めずに抜け出して来た。今回も、今回も、何か。もしかしたら、自分が助けに行って、上手く救出、とか。
そんな夢を、希望を、一瞬でも胸に抱えて年表を読み進めてみたのが、駄目だった。
連れ去られて一ヶ月後。一九三三年、年の瀬。綾瀬は、一人で、あの日振り切った選択肢を手にしてしまっていた。二十五年のしがらみに、終わりを飾った。
「は……はは」
四ヶ月。自分がこの世界に来たあの朝から、たった四ヶ月後のこと。
膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。
親友が、いなくなってしまう。遠いところへ行ってしまう。
守れなかったんだ。結局、何も救えなかったんだ。無力なままなんだ、いつまで経っても、自分は、ずっと。
視界が霞む。物を上手く捉えられない。
「いや……違う。きっと、違う」
ずっと探していた。ずっと分からないでいた。自分が、ここに来た意味。この時代に来た意味。
これだったんだ。全ては、これを知るためだったんだ。
自分は綾瀬を守るために、ここに来た。これからもずっと、綾瀬と二人で生きていくために。
もう、二度と、奪わせない。
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「まずいまずい、電車に乗り遅れる!!」
「葉山……。だから言ったろう?夜のうちにある程度用意をしておけって。朝の君はこうもバタつくんだから」
「今日は早く起きるつもりだったんだっ!」
「まったく君は本当に……。忘れ物はないかい?」
「あぁ!それじゃあ、行ってきます!綾瀬」
「あぁ。行ってらっしゃい、葉山」
バタバタと慌ただしく出て行く親友を見送って、自分は朝食を片付けるために台所へ向かう。この後は彼の布団を畳んで、部屋の掃除をして、花瓶の水を入れ替え、シャツにアイロンをかけて、夕飯の買い物に行って……なんて、いつも通りの、至って普通な日常を考える。
「おいおい……これはまさか……」
机の上に取り残された、薄茶の中折れ帽子が目についた。
これは間違いなく、葉山の帽子だ。忘れ物だろうか。
「まぁ……必要なら電話が来る、か」
葉山は忘れ物が多い。つい先日も、資料を忘れたとか財布を忘れただとか言って、昼休憩の時間に電話がかかってきた。もう昼に彼から電話がかかってくるのは日常の一部と化していて、むしろ電話のない日は、静かな昼に寂しさを感じるくらいだった。
電話がかかってきたら、すぐに彼の働く銀座へ届けに向かう。そこで少し話をしてから別れて、またお互いの午後へ戻っていく。これが自分たちの長年続く日々だった。
「はは、また格好がつかない、って喚くだろうなぁ」
葉山は学生時代から真面目だった。一見落ち着いた常識人に見えるのに少し抜けがあって、こうして忘れ物を頻繁にする。だというのに強がりで見栄っ張りなものだから、自分の前でもいつも格好つけたがった。
「さて。早く片付けてしまおう。あ、差し入れに菓子でも持って行こうか……」
電話がかかってくるのは、もう確実だと思っていた。帽子なんてあってもなくても変わらないだろうし、仕事で彼が帽子を必要としている様子は見たことがない。それでもなぜか、昼に廊下のデルビルが鳴って、受話器の向こうから『届けに来てくれないか』という声がすると信じて疑わなかった。
「う……っ、朝、か。……朝が来たぞ、葉山。今日という日を、君は知っているかい」
その日から、葉山は行方不明になった。信じていた昼の電話はなく、彼の姿も見えないまま夜が更け、いつの間にか次の朝日が顔を出していた。
チッ。チッ。チッ。
時計が、彼のいない時間を刻み、重ねていく。
葉山がいなくなって、今日で二週間が経った。一人では広すぎるこの家はなんだか薄暗くて、陰湿な空気が漂っている。
カーテンも窓も開ける気にならない。今この家は、葉山がいなくなったあの日から何一つ変わっていなかった。時間が、止まっているんだ。
ぎゅっ、と、腕の中にある彼の帽子を抱きしめる。
何もできないなんて、なんと無力で情けないことだろうか。
「帰って来るだろう、葉山。約束、したんだから」
葉山は生きている。必ず、帰って来る。いつの日だったか、彼に言われたことだ。行ってきますと行ってらっしゃいは、必ずここに帰って来るという約束なのだ、と。
机の上に広がる新聞を、呆けた頭で読み返す。もう何度も目を通した、二週間前の、あの日の新聞だ。
『銀座百貨店 大火災』『死傷者百余名』
十二日の午前、起こった悲劇の報道。ラジオでも取り上げられ、今の東京はこの話題で持ちきりだった。
君は、帰って来るだろう?怪我をしてしまって、今だけどこかに身を寄せているとか、そういうことだろう?
警察に何度問い合わせても、死傷者の多さゆえにはっきりした答えは返ってこない。職場の人間に聞こうにも、この騒ぎだ。今はできる状況ではないだろう。
「葉山……」
去年も、日本橋で百貨店が燃える事故があった。それを聞いて、物騒だな、気をつけないとな、と話していたと思ったらこれだ。
もう一度布団に潜る。起き上がらなければいけない。布団を畳んで、着替えて、いつも通り、過ごさなければならない。彼がいつ帰ってきても迎えられるように、準備をして、綺麗にしておかないと。そう思う心とは裏腹に、気力のない身体に力は入らず、呼吸ですら重くなってくる。
寒い。冷たい。今年の夏は、こんなに冷えていただろうか。
「はは……困ったもんだよな……。君がいないだけでこのザマだ」
思えば、自分に誰かと過ごす温かさを教えてくれたのは、葉山だった。
身分だけがやたら高い、医者の家に生まれた。冷たい父親に姿のない母親、父に従うたくさんの女中たち。医者になれという命令を押し付けられて、発言の隙もないまま育ってきた。医者になりたくないと家を飛び出して、縁を切ったのが大学の時。
追われる身を隠しながら一人公園で夜を明かし続けた。クラスメートも教師も信用できず塞いでいた自分を、葉山が変えてくれたんだ。
家に住まわせてくれた。隣で寝てくれた。初めて、自分を自分として見てくれた相手だった。葉山は、温かかったんだ。
「葉山……。どこにいるんだい。教えてくれたって、いいじゃあないか」
腕に抱きしめた、薄茶の帽子を見つめる。
……動こう。このままじっとしていても、きっと何も変わらない。
俺も、男だ。どれだけ追われる身だろうが、居候の身だろうが、守られるだけじゃない。
迎えに行くよ、葉山。どこにいたって、君を探すから。
どうか、無事でいておくれ。
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「『有難ウゴザイマシタ。オ世話ニナリマシタ。…』……っ、よし、これで……」
年表で綾瀬の訃報を知ってからというもの、自分はすぐにアパートへ帰り、荷物の整理を始めた。大家にもらった服や金銭、余った食料を机に置き、謝辞と別れを綴った手紙を添えた。
これでもう、いつあの時代に帰っても問題はないだろう。
「一番大きな問題は……」
どうやって帰るのか。それだけが、自分に残った問題だった。
ここに来た時のことはあまりよく覚えていないし、どこかに手掛かりがあるようにも思えない。
「今行けば、何かが変わるかもしれない」
そして自分は、もう一度、先日行った自分たちの家があった場所へ行ってみることにした。あの時は何もなかったが、この遠い未来に来た意味を掴んだ今なら、何か変わるかもしれない。
しかし、それには一人で交通網を利用する必要があった。ここからあの場所まで、乗り換えは一回だったはず。新橋に出て、確か緑の電車……に、乗った。
「いささか不安だが……行くしかない」
切符の買い方一つとっても怪しい自分だ。窓口で駅員から買っていた今までとは違って、現代では一人で画面と向き合って買わなければならない。未だに慣れない金銭の単位と硬貨にもまた戸惑ってしまうだろうし、改札というものも慣れない身ゆえ、不安は大きい。それに、あの機械に切符を入れた瞬間ものすごい速さで吸い込まれていくのが少し怖かったりもする。大勢の前で恥はかきたくない。戸惑い方に不審な目を向けられるのも痛い。
だが、それを乗り越えれば帰ることができるかもしれないというのなら。自分は喜んで足を進めよう。
自分は机に置いた財布から適量の金銭をもらって、また机に戻した。
自分の持ってきた鞄だけを抱え、アパートの扉を開ける。
大家への手紙と、暑い部屋と、着ることのなかった衣服。さようなら。
今夜は、ここに戻って来ないことを願って。
ガタン、ガタン。
電車に揺られながら、慣れ親しんだ街の名に耳を澄ませる。
有楽町、東京、神田。電車が進むにつれて、自分の街が近づいて行く。
車内に響く車掌の声が東京を語ったとき、はたと、自分の手が汗を握りしめていることに気がついた。あと少しで、自分のいた街に着く。これでもし、また何も起こらなかったら。今度こそ自分は帰り方を失くすのではないか、と冷や汗が流れた。
「大丈夫、大丈夫……」
鞄の持ち手を、強く握りしめる。唇を噛んで、ぎゅっと目を瞑る。
なんとしてでも帰る。今日これから、自分はあの時代に帰れる。固い意志と、信じる心があれば、きっと大丈夫だ。
電車を降りてから、自分は足早に家の場所へ向かった。相変わらずの見慣れない景色だが、地形は早々変わらない。自分はすぐに先日も訪れたこの場所へ辿り着くことができた。
綾瀬と二人で過ごしていた家。九十二年前、この場所に建っていた家。
今はもう跡形も残さず、違う建造物を建てるその土地に一歩、踏み入れてみる。
そっと、地面を撫でる。手についたのは、土ではなく小さな石粒だった。
「元の時代に、戻らせてください。どうか、俺に綾瀬を救わせてください」
チッ。チッ。チッ。
どこからか、時計の音がする。
チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
ボーン。ボーン。ボーン。
刹那、視界が歪んだ。
・-・・・ ・-・・ -・--- --・
「………ま!!は……ま!!葉山!!!」
「っ……?」
「葉山!!葉山!!!」
「あ……やせ?綾瀬!?」
自分を呼ぶ声に目を覚ませば、目の前には大粒の涙を溢す親友の姿があった。
身を起こすと同時に、勢いよく抱きつかれる。
「今までどこにいたんだ、葉山!!ずっと、ずっと、心配だった……」
「綾瀬……。ごめん。……帰って来られて、本当によかった……」
ようやく、ここに帰って来られた。自分たちの家へ。親友の元へ。
首に回る綾瀬の腕に、ふわりと鼻を掠める花の香。安心できるそれらに、改めて帰ってきた実感を噛み締めた。
喜びと切なさとで涙が溢れる。家の前で、綾瀬と一緒に泣きじゃくった。
「どうしてこんなところに倒れていたんだい?それに、怪我は?」
「怪我はないよ。綾瀬の方こそ、何もなかったか?目をつけられたりとか……!」
「はぁ?何を言っているんだい、君。俺には何もないさ」
「そうか……。今はまだ、大丈夫なんだな。良かった……」
目の前にいる彼が、後三ヶ月もしないうちに自分の元から姿を消してしまう。
そのことが常に頭を占領しているせいで、綾瀬の全てが切なく霞んで見えてしまった。
「さぁ、家に入ろう。この二週間の話、詳しく聞かせてくれ」
綾瀬に連れられて家へ帰る。わずか二週間しか経っていないというのに、なぜだかひどく懐かしいような、安堵したような、そんな感動を覚えた。
ああ、二人の家だ。これからもずっと、二人で生きていく場所だ。
二週間ぶりに帰ってきた家は、薄暗くて空気が重く、それでいて少し、荒れていた。カーテンも窓も閉め切られていて澄んだ空気と光は入らず、いつも綺麗に畳まれていた布団はぐしゃぐしゃのまま敷かれ、花瓶の花は枯れていた。
「申し訳ない。普段通りにしなければとは、思っていたんだがな」
「いいや。……心配をかけた。俺の方こそ、謝らないと」
「なぁ。どこに行っていたんだい。帰れない理由が、あったんだろう」
「それは……」
未来のことなんて、話してもいいものなんだろうか。いや、話したところで、信じてもらえるんだろうか。
不安と緊張が胸を締める。それでも、嘘はつきたくない。誠実でいたい。
「……未来の世界に、行っていたんだ」
珈琲を淹れてくれる綾瀬の背中を見つめながら、すっかり沈んだ座布団に腰掛ける。畳を撫でながら、彼の返答を待った。
「……未来?」
「ああ。十二日の朝……気がついたら、ここから何十年も先の日本にいたんだ。そこでどうやったら帰ることができるのか、模索していたら二週間も経ってしまった」
「え……じゃあ君、あの日は出勤していないのか……!?本当に!?」
「え?あ、ああ。していないよ」
こちらを振り返った綾瀬は慌てて駆け出し、枕元に広がる新聞を掴んで持ってきた。その記事を見て、自分は唖然とする他がなかった。動揺を隠せない。
大火災。十二日の午前、自分の職場が、炎に包まれたらしい。
出火は自分が働いていた店の上階。たくさんの職員と客が巻き込まれて怪我を負ったという。もし、自分があの朝、何事もなく出勤していたとしたら。間違いなく自分も巻き込まれていたことだろう。全身に怪我を負うことになっていたかもしれない。
「これは……本当、なのか?職員は?皆無事なのか?」
「分からない……。警察がいろいろ調べていると思うが……」
「……そう、か」
あの朝、自分が未来に飛んだのは、これを回避する意味もあったんだろうか。
綾瀬を最悪の未来から守るだけじゃない。自分も無事でいなければ、誰かを守ることなどできないと、そういう意味だったのかもしれない。
「俺はずっと、葉山がこれに巻き込まれたんだとばかり思っていたよ。だから……」
「心配、してくれたんだな」
「そりゃあそうだろう。未来に行ってるだとか、一体誰が想像できると言うんだい」
「ありがとう。綾瀬」
綾瀬は何も言わなかった。ただじっと、こちらを探るようにして黒い双眸を揺らしている。迷った子供のような、主人とはぐれた子犬のような、そんな、不安げな眼差し。大丈夫だと、俺はもういなくなったりしないと、そう伝えるように綾瀬の瞳を見つめ返した。
「…………。……なあ、未来は、どんなところだった」
「様変わりしていたよ。現代の物はもう、跡形がなかった」
「そうか。……そいつは、切ないな」
「ああ。でも、技術の発展は喜ばしい物だった。航空機が人を乗せて旅をする日常、電車網はいろいろなところにまで伸びて、さらに往来が楽になっていた。食べ物は常に冷やしていられるし、夏の暑さだって、機械一つで快適にできた」
「はは、そりゃ便利でいいな。君、使いこなせたのかい」
「いいや、全くだ。あらゆる物が機械化された世界じゃ、俺は生きていけなかった」
未来の話を聞く綾瀬は楽しそうだった。機械に弱い自分を知っているからか、機械の話になると、彼は自分を揶揄った。
今思い返してみれば、あの時代の技術は本当に目を見張るものばかりだった。
あれらは、この時代から後何年経てば生み出される物たちなのだろう。
綾瀬が淹れてくれた珈琲に口をつける。自分好みの味に、心が落ち着いた。
未来で知った彼の行く末は、当然、本人に言えるものではない。今年の十一月。そこが、全てだ。それさえ乗り越えることができれば。
「なぁ、綾瀬」
「なんだい」
「今年の十一月、旅行に行かないか」
「え、旅行?随分と急な話じゃあないか」
「……二人でのんびりしよう。いろいろな物を見て、食べて、一緒に……」
「……俺は、構わないけれど。君は仕事があるだろう」
「休みをもらうよ」
これは、悲史に抗うための旅だ。親友の命のため。他のことなど気にしてはいられない。
「……二泊?三泊?」
「一ヶ月でも、二ヶ月でも」
「え、は?」
「綾瀬さえ良ければ、十月の終わりから十二月の初めくらいまで行こう」
「どうしたんだ葉山。何言って……」
「頼むよ」
彼に頭を下げる。突然こんなことを言い出したのだから困惑されるのも当然だった。でもこれだけは了承してもらわなくてはいけない。そのためなら、自分は土下座だってするつもりだ。
「どうか、俺の我儘を聞いてほしい。一緒に来てくれ、綾瀬」
「……。……わかった。行くよ。……それで?どこに行くつもりなんだい」
「そ、それはまだ……」
「はは、誘っておいてなんだ、それ。じゃあ、二人で考えよう」
「ああ!……ごめんな。ありがとう」
「構わないさ。君がここまで言うのも珍しいもんだから」
どこかの旅館に滞在して、のびのびと生活するのもいい。綺麗な紅葉を見て、美味しい物を食べて。それで、そんな日々をノートに記録しておくのだ。
綾瀬も自分も本が好きだから、誰か知っている作家の滞在した地なんかを調べて行ってみるのもいいかもしれない。
「あ、そうだ。忘れていたけれど、君、帽子を置いて行っただろう」
「え?あ!そうなんだよ」
「はは。まったく、相変わらず忘れん坊だよ。……でも、今回はこれが支えになってくれた」
「え?」
「いーや、なんでもないさ」
綾瀬は笑って帽子を渡してくれた。少しだけ、花の香りがする。
「旅行、楽しみだな」
「ああ」
きっと、十一月なんてあっという間に来る。そして十二月が来て、年が明ける。
開け放った障子から、夏の風が入って来た。縁側に出れば、背の高い向日葵が揺れている。
どうか、十一月を無事に超えて、綾瀬と一緒に新年を迎えられるように。
この旅が功を成して、楽しい旅で終われるように。
夏の青い空、生暖かい風、揺れるひだまり色の花に、そんなことを願った。
-・-・・ ・・-・- ・・-・・ ・- -・-・・ -・--・
「葉山!並べるの、手伝っておくれ」
「ああ、今行く!」
自分の思っていた通り、夏はすぐに終わって、秋が訪れて、そして冬になった。
あの後すぐに計画を立てた旅行は、予定通り十月の終わりから始まって、十二月の初めまで続いた。一番恐れていた十一月も何事もなく過ぎ去り、十二月も今日で終わろうとしている。
「お、蕎麦か!さすがだな」
「やはり年越しは蕎麦、だろう?」
「あぁ、そうだな!」
「ほら、よそ見しなさんな。溢しちまうぞ」
「分かってる……って、うわっ、あつっ!」
「あ〜、ほらもう……」
手に溢した汁を綾瀬に拭いてもらう。自分の手に重なる彼の動きを、自分はじっと眺めていた。ついに、年越しがやってきた。もう数時間後には年が明けて、綾瀬と共に新たな一年を迎える。
……あの年表に記されていた世界の自分は、どうやって今日この日を過ごしていたんだろうか。一人ぼっちで、ただ寒いだけの年越しだったかもしれない。
「なんだか、暖かいな」
「そうかい?」
「ああ」
二人分の蕎麦を机に運ぶ。湯気が顔にかかって熱い。けれど、とてもいい匂いだ。後ろからは台所に立つ綾瀬の鼻歌が聞こえてくる。
「花瓶の花、変えたんだな」
「あぁ。新年だからな。葉牡丹さ」
机の後ろにある棚の上では、花瓶に生けられた葉牡丹が美しく存在を放っていた。
その隣には先日の旅行した日々を記録したノートが立てかけられている。
「今年一年、ありがとう。葉山」
「それは俺からも言わせてくれよ。本当に、ありがとう。……なぁ。綾瀬」
「うん?」
「これからも、一緒に過ごしていこう。もういなくなったりしないから。だから、綾瀬も……」
「当然だ。いなくなるわけがないだろう。俺がいなくなったら、一体誰が抜けの多い君に忘れ物を届けてやれるんだい」
「なっ!そ、それは言わなくても!」
はは、と悪戯に笑う綾瀬と、何も言い返せない自分。
でも、これが二人の日常の形だった。
自分たちの運命が、大きく変わったあの八月の日。陽炎に惑わされたあの夏に、自分は命を救われ、そして大切な親友の人生を守ることができた。
また一年、この家で過ごしていこう。ここには大切な物がたくさんあるのだから。
ありがとう。この運命に導いてくれた、誰かの力、何かの力。
俺たちは今、二人揃って、明ける世界の朝日を願い待つ。
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