第1章 第1節 帰郷と家族と、唐揚げと

大阪を出て四時間。ようやく車窓に映し出された地元の海は相も変わらずで、この町を離れて三年が経つという実感を、あっさりと打ち消した。

 電車を降りる。久々に帰ってきた僕のことなど意にも介さず、電車は音を立ててすぐに駅を後にした。

 鼻腔を突く潮の香りが、懐かしさを呼び起こす。


 無人駅を抜け、階段を降りる。時刻は十七時を回ろうというのに、自己主張の強い夏の日差しは容赦なく頭を焦がしてくる。

 階段を下りた先のバス停で、時刻表を確認する。余白の多い表には、次のバスが三十分後に来ることだけがぽつんと記されていた。


 三十分。ここには屋根もトイレも自販機もある。暑ささえ我慢できれば、わりと快適に過ごせる。

 それでも、僕は太陽の下に身を置くことを選んだ。理由なんて特にない。強いて言えば、哀愁に浸りたかったのだ。

 都会の喧騒に慣れた身を、田舎の海の潮騒で静かにほぐしたかった。


 駅前から海へと足を向ける。ものの数分で、視界いっぱいに海が広がった。

 昔、何度も見た光景だ。妹の友達、彩夏ちゃんの号令で、僕と留衣は何度もこの海に来た。

 砂浜で城を作り、地平線の向こうまで泳ぎ、冒険にも出かけた。そのたびに、大人たちにこっぴどく叱られた。

 記憶の断片が、映画のモンタージュのように次々と脳裏に浮かんでは消える。


 ふと海岸沿いの道路を見ると、いくつかの出店が準備されていた。

 近づいて、ポスターを一枚見る。『常世波祭り』──この常波町で開かれる花火大会の告知だ。

 三人でこの祭りにもよく行った。伝承を基にした祭りらしいが、あの頃の僕らにとってはどうでもよかった。

 ただ、屋台を巡り、山の上に作った秘密基地から花火を眺める。それが楽しみだった。


 やがて、バスの時刻が近づいていることに気づいた。

 急いで駅前へと駆け戻る。駅前には、乗降者もいないのに律儀に待つバスの姿があった。

 僕は乗り込み、唯一の乗客となる。ほどなくして、扉が閉まり、エンジンが低く唸った。


 バスは駅前を抜け、町の中へと入っていった。窓の外を流れる景色は、変わったようでいて、やはりどこか見慣れたものだった。駄菓子屋がコンビニに変わっていたり、民家が更地になっていたり。そんな些細な変化の中に、三年という時間を感じ取る。


 やがて、実家の近くのバス停が近づいてきた。僕は降車ボタンを押す。子供のころ、このボタンを押すだけでなぜかワクワクしていたな、とふと思い出す。


 バスを降りると、実家まではもう目と鼻の先だった。すぐに向かってもよかったが、少しだけバス停で足を止めることにした。ちょうど良い具合に、簡易の屋根とベンチがある。どうせ次のバスが来るのは数時間後だ。誰に咎められることもない。


 僕はベンチに腰を下ろし、ぼんやりと道を眺めた。大阪では一秒ごとに車が行き交うが、この町では五分に一台通ればいいほうだ。人影もまばらで、静かな夏の午後が広がっている。


 不意に、自転車のブレーキ音とともに声を掛けられた。


「お兄ちゃん?」


 視線を向けると、制服姿の女の子が自転車にまたがって立っていた。


「おう、留衣。久しぶりだな」


「ほんとだよ! 全然帰ってこないんだから。駅に着いたなら連絡くれれば迎えに行ったのに」


「迎えって……自転車で? それ、俺の後ろに乗って楽したかっただけだろ」


 留衣は「てへっ」とおどけて舌を出した。何気ないやりとりが、どこか懐かしく心地よい。


「それにしても……留衣、ちょっと変わったな」


 かつてはショートカットだった髪は、背中まで伸びて少し茶色がかっている。背も心なしか高くなった気がする。顔立ちは整っていて、兄の贔屓目なしに見ても、なかなか可愛い部類に入るだろう。兄としては鼻が高い……が、彼氏ができたらと思うと複雑でもある。胸は……残念ながら成長が止まっているようだった。


「え、なに? じっと見ないでよ」


 留衣が半歩後ろに下がった。まるで変質者を見るような視線だ。


「いや……留衣の学校の男どもは見る目がないなと思ってさ」


「うわ、お兄ちゃんキモい。いいから、さっさと帰るよ」


 そう言って、留衣は自転車をこぎ出した。


 僕も重い腰を上げ、実家へと歩を進めた。


「ただいま」


 玄関に入り、靴を脱ぐ。リビングから「お帰りなさい」と母の声が返ってきた。


 僕はもう一度「ただいま」と返しながら、リビングに入る。冷房の効いた部屋の涼しさが、火照った体に心地よかった。


「洋平、元気にしてた? 体調は崩してない?」


「うん、大丈夫だよ。母さん」


 母はほっとしたように「良かった」と言いながら、ソファに腰を下ろした。


「そういえば、留衣は? 俺より先に帰ったと思うけど」


 僕は食器棚からグラスを取り出し、水を注ぎながら尋ねた。


「汗かいたからって、お風呂に入ったわよ」


「そっか。俺も後で汗流そうかな」


 水の入ったグラスを手に、ダイニングの椅子に腰を下ろす。


「そうね、そうしなさい。夕飯はもうできてるから、お風呂から上がったら食べましょ。お父さんも、もうすぐ帰ってくると思うから」


 母がそう言ってテレビのチャンネルを変えると、天気予報が流れ始めた。今週は晴天続きらしい。真夏の暑さは、まだまだ続くようだ。


 しばらくして、留衣がお風呂から出てきた。髪はまだしっとりと濡れているが、可愛らしい家着に着替えている。


「お兄ちゃん、おかえり」


 あっさりと一言だけ言ってから、留衣はキッチンへ向かい冷蔵庫を開けた。豆乳を取り出し、コップに注いで一気に飲み干す。


「豆乳? ……ああ、そういうことか」


 思わず声に出してしまった。留衣が豆乳を飲んでいる姿なんて初めて見た。


「……ちがっ、違うから! そうじゃないから! 豆乳が好きなだけだから!」


 顔を真っ赤にしながら、必死に否定する様子は逆に分かりやすい。わが妹ながら、微笑ましい。


「あら? いつもはお風呂上がりに暑いって、下着のまま出てくるのに。珍しいわね」


 母がさらっと追い打ちをかけた。


「もうっ! ママまで何言ってんの!」


 留衣はコップをシンクに置いたかと思うと、そのままリビングを飛び出していった。


「夕ごはん、もうすぐだから! 呼んだら戻ってきなさいよー!」


 母がその背に向かって声をかけると、留衣の部屋のドアがパタンと閉まる音がした。


「……じゃあ、俺も風呂入ってくるよ」


 僕は立ち上がり、風呂場へと向かった。


 汗を流してさっぱりした体でリビングに戻ると、父がソファに座っていた。母と留衣は、ダイニングテーブルに料理を並べている最中だ。


「洋平、おかえり」


「ただいま、父さん」


「夕飯の用意、できたわよ。さあ、食べましょ」


 母の声に促され、僕たちは席についた。テーブルには唐揚げ、おひたし、そしてお麩とわかめの味噌汁が並んでいる。どれもこれも僕の好物ばかりだ。一人暮らしを始めてから、二週間も経たずに自炊を放棄した僕にとっては、まさにごちそうだった。空腹を覚えた腹が、ぐぅっと正直な音を立てる。


「いただきます」


 白米を片手に唐揚げにかぶりつく。うまい。やっぱり、母さんの味は格別だ。「おかわりもあるからね」と声をかけられ、僕は親指を立てて返した。


 しばらく食事が進んだ頃、母がふと口を開いた。


「洋平、急に帰ってきてもらってごめんね。いくらこの辺りが田舎とはいえ、やっぱり年頃の娘を夜中に一人にしておくのは心配で」


「全然いいよ。旅行だろ? たまには父さんと母さんで、ゆっくり夫婦水入らず楽しんでおいでよ」


「ありがとな、洋平」


 父も静かに、優しい声で返してくれた。


「そういえば、まだお墓参りには行ってないんじゃない?」


 母の言葉に、箸を持つ手が少し止まる。彼女が亡くなって、もうすぐ三年が経つ。僕はまだ一度も、墓前に立てていなかった。


「……そうだね。行かないと」


 その一言のあと、沈黙が落ちた。家族といえど、こうした話題のあとに訪れる静けさは、少しばかり気まずい。


 僕は空気を変えようと、話題を探す。


「……今日さ、留衣、制服だったけど。夏休みじゃないの?」


 咄嗟に出た言葉にしては悪くないと思う。話題はふっと軽くなった。


「ん? 夏休みだけど、今日まで夏期講習だったの」


「そっか。もう高三だもんな。志望校は決まってるのか?」


「それがね、洋平と同じ大学を受けるんですって」


「もうっ! ママ! 何でもすぐに喋らないでってば!」


 母のにやにやとした顔に、留衣が声を上げる。


「洋平と留衣、三つ違いだからな。同じ学校に通うのは、小学生のとき以来か」


 父も会話に加わってくれたおかげで、空気はすっかり元どおりになった。僕も少し、ほっとする。


「ほんと、昔からお兄ちゃんのこと好きだよなー。高校も同じ学校だし」


 僕が冗談めかして言うと、留衣がジトッとした目で睨んできた。


「……お兄ちゃん、嫌い」


 えっ、と脳が一瞬停止した。嫌い? 今、嫌いって言われた? それって嫌われたってことか?


 そんな僕の隙をついて、留衣の箸が僕の皿に伸びた。最後の一個、大事にとっておいた唐揚げが、ひょいと奪われる。


「これで許してあげる」


 そう言って、留衣はいたずらっぽく笑いながら、唐揚げにかぶりついた。

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