書く魔女のいる森

青ノ さと

第1話 もうひとつの春

 ゆっくりと足を持ち上げる。その度に、重いため息がこぼれ落ちる。

 なんでこんな思いをしながら山道を登っているのだろうか ─── ふと、そんな問いが頭をよぎる。

 それでも足を止めることはなかった。

 突然、ガサッと緑が揺れた。

 驚いて視線を向けると、ウサギが一匹、顔を出した。

 ウサギは鼻をヒクヒクとさせ、じっと私を見つめる。そして、まるで「ついてこい」というように先に駆けていった。

 その小さくて丸い背中を追いかけるように足を動かす。

 鳥のさえずりが聞こえ、森の葉が風で大きく揺れた。その鋭さに目を瞑った時、甘い香りがした。

 それは間違いなくジャムを煮詰めている香りだった。

 その香りを辿っていくと、古びた小さな木の家があった。

 唐突に現れたような気さえするそれに私は目を丸くし、よろけるように足を前に出した。


(ここが…魔女のいる家?)


 辺りを見渡し、それらしき存在を探す。

 けれど豊かな森が穏やかに揺れているだけだった。


(家の中にいるのかしら…)


 周囲を確認しながら家へと近づく。

 レンゲの花とイチリンソウが共存した花畑が足元に広がり、その先では小さな泉が空の色を映している。そして、その泉の傍には何百年も前からそこに居座っていそうな大木があった。

 無意識に大木を見上げる。

 太い枝が一つあり、そこでリスと白い小鳥がお喋りしていた。

 ジャムの甘酸っぱい香りがより一層濃くなり、体の力が自然と抜けていった。

 乱れた髪を手ぐしで直し、スカートについた土ぼこりを払い、身なりを整える。

 まるで王様に謁見するかのように。

 そして、ドアをノックしようと利き手をあげた時、


「こんにちは、お嬢さん」


 ドアが内側から開いた。


「今、ジャムを作っていたところなんだ。よかったら、食べていかないかい?」


 太陽の光を浴びて、黒いローブが浮かび上がる。そこから覗く肌はとても白く、血の気がない。

 それなのに私を誘う声は優しく、穏やかだった。


「はい。ありがとうございます…っ」


 心臓が高鳴り、語尾が強くなってしまった。けれど魔女は気にする素振りを見せず、まるで孫の訪問を喜ぶ祖母のように私を手招きした。

 私はそれを受け、家の中に足を踏み入れた。


「そこのイスをどうぞ」


 魔女に言われるがまま、入り口から一番近い椅子に腰を下ろす。

 家と同じように木でできた古びた椅子だった。

 グツグツとジャムが煮込まれる音が部屋に響いている。

 魔女はその鍋に歩み寄り、あやすようにかき混ぜた。


「木イチゴのジャムだよ。好きかな?」

「は、はい」

「それはよかった。たっぷり塗ると良いよ」


 魔女はそう言いながら、ビンにジャムを詰めていく。

 まだ熱を帯びたそれは、陽に透けて、まるで赤い宝石のようにキラキラと輝いていた。

 そのビンと、パンが乗ったかごと、水の入ったグラスをお盆にのせ、彼女はゆっくりとテーブルに来た。


「ジャムはね、出来立てが一番美味しいんだよ」


 私がパンに手を伸ばす前に、魔女はパンを手に取った。そしてスプーンを使って、慣れた様子で塗っていく。


(初めて会ったのに、そんな気がしない…)


 そんな不思議な感覚を覚えながら、私もパンに手を伸ばした。

 口の中でパンがサクッと音を立てた。続くようにジャムの温かい甘さが口いっぱいに広がっていく。


「美味しい…!」


 想像よりもずっと美味しくて、つい声が漏れてしまった。そんな私に、魔女はクスクスと品よく笑った。


「お嬢さんは結婚が決まったんだってね」


 魔女の言葉に、ジャムを塗る手が止まった。

 恐る恐る視線をあげると、穏やかな笑みがこちらを見つめている。


「喜ばしいことだね。だから、今日、ジャムを作ろうと思ったんだよ」


 魔女はまたクスクスと笑った。

 私はスプーンを置くと、テーブルの上に強く握った両手を乗せた。


「あなたは、望んだ物語を書いてくれると聞きました」


 魔女は笑みを浮かべたまま、ゆるりと首を縦に振った。


「お嬢さんは、どんな物語をお望みだい?」


 ドクドクと心臓が高鳴る。

 先程飲み込んだジャムが溶けた鉄のように体を熱くした。


「忘れられない…初恋の人がいるんです」


 魔女は「ほぅ」と口角をあげた。


「同年代の子どもが他にいなかったから、子どもの頃は毎日のように一緒に遊んでいました。明るくて、晴れた日がよく似合う子でした」


 ぎゅっと目を瞑ると、彼との思い出が脳裏をよぎる。

 けれどそれはもうだいぶ薄れてしまった。

 覚えてるのは顔の輪郭だけ。どんな声をしていたのかも、どんな瞳の色をしていたのかも、もう曖昧だった。


「大好きだったのに…その想いを告げることはできませんでした」


 ほんの一言が恥ずかしくて言えなかった。

 いや、きっと、拒否されるかもしれない未来を恐れて、踏み込むことができなかった。


「言えないまま、彼は遠くに…」


 魔女は静かにスプーンを置いた。

 そして続きを促すように、ローブの奥にある瞳を細めた。


「結婚が決まった時、真っ先に彼のことを思い出しました。こんなの良くないってわかってる。でも、もし…彼に想いを告げることができていたら、どうなっていたんだろうって」


 じわりと胸の中で黒い染みが広がる。

 それは婚約者への罪悪感だった。

 それでも、


「私が彼に想いを伝えられていたら…どうなっていたのか…」


 願わずにはいられなかった。


「…書いてくれませんか?」


 私に応えるように魔女はゆっくりと唇を動かした。


「物語を書くには対価が必要なんだ」

「それは、例えばどんな…?」

「そうだねぇ…。お嬢さんの場合、“晴れた日を好きだと思う気持ち”をいただこうかな」

「晴れた日を好きだと思う…気持ち」

「うん」


 魔女はテーブルに両肘をつくと、口元を隠すように手を組んだ。


「それでも、望むかい?」


 今までの穏やかな口調とは違い、そう告げた声は警告のように低く冷たかった。

 思わず言葉に詰まる。

 晴れた日を好きだと思う気持ち。

 それを失った自分がどうなるのか、いまいち想像することができなかった。

 なんでもない対価のように感じる。けれど、小さな不安が渦巻いていた。


(…せっかくここまで来たんだから)


 私は大きく息を吸い込むと、魔女の瞳を真っすぐに見つめた。


「よろしく…お願いします」


 魔女はほんの少しだけ首を傾けると、


「ご依頼承りました」


 畏まった口調で引き受けた。

 魔女がゆっくりと立ち上がると、椅子の足が小さく床を蹴った。

 途端、ふわりと空気が変わった気がした。

 窓から差し込む日差しが柔らかくなり、ジャムの甘酸っぱい香りが曖昧になる。


「書いた物語を読めるのは一度きり。そして、ここでのみ」


 魔女が胸の前で両手を天に向けた。

 そこに光が集まり、それはやがて本と羽根ペンに変わった。


「物語のタイトルは『もうひとつの春』」


 魔女はペンを手に取ると、迷いなく動かしていく。

 その紙を削る音に、ゆっくりと瞼が重くなっていった。

 視界が完全な暗闇に染まると、中央から一筋の光が差し込んできた。それと同時に、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「ぼーっとして、どうかしたのか?」


 はっと我に返り、目を見開く。

 真正面にある空色の瞳が訝しげにこちらを覗いていた。それに私は慌てて首を横に振った。


「あ、うん、なんでもない」

「ふぅん。なら、いいけど…。じゃあ、行こうぜ」


 彼はどこか納得していなさそうな態度を見せたが、切り替えるようにくるりと背を向けた。

 そして前へと歩き出す。向かうのは、いつも二人で遊んでいる大木だった。

 すいすいと登っていく彼に、私も負けじとついていく。

 何十回、何百回と同じことを繰り返しているはずなのに、今日は妙に懐かしく思えた。

 まるで、久しぶりに登ったかのように。


( ─── あ、そうだ。ここは魔女に書いてもらった物語の世界)


 太い枝に腰を下ろし、住んでいる村を見下ろした時、懐かしさで胸がいっぱいになった。


(懐かしい風景)


 小さな家々に豊かな緑。大人たちが忙しく働く中で、家畜が呑気に餌を食べている。

 チラリと横に視線を向け、隣に座る彼の横顔を見つめた。

 日に焼けた肌に、風で色褪せたかのような色素の薄い髪。幼さが残る輪郭にはふっくらとした柔らかさがあった。


(懐かしい面影)


 自然と胸の奥が温かくなった。

 目の前にあるものすべてが、今はもう手の届かないものだった。


「…なんか、今日は静かだな」


 彼は眉を寄せると、疑念のこもった眼差しを向けてきた。それに貫かれ、ギクリと肩が跳ね上がった。


「いや、えっと…」


 告白するためにここに来たのに、続く言葉が出てこない。

 視線を右往左往していると、空色の瞳は更に鋭く細まった。


「俺に隠し事してんの?」


 そんな拗ねている声すらも懐かしく感じる。

 けれど感傷に浸っている暇はなかった。


「そんなんじゃ…なくって…」


 なんのためにここに来たんだと心の中で自分自身を叱咤する。

 こうやって何度も何度も、後回しにして、結局何も言わずに来てしまった。それを後悔しているはずなのに、喉は張り付いたように言葉を作らせてくれなかった。

 しばらく沈黙が流れると、彼のため息が鼓膜を揺らした。


「…今日はもう帰ろうぜ。調子悪いんだろう」


 否定しようと顔を上げた時、彼はひらりと枝から飛び降りた。そして軽やかに着地した。


「ま、待って…!」


 私も慌てて枝から降りる。けれど、彼のように飛び降りる勇気はなかった。

 木を掴む手が震える。スピードが出せず、彼の背中はどんどんと離れていく。


(待って、行かないで…!)


 足が地面についた時、溢れた感情が涙となって視界を覆い尽くした。

 空色の晴天、森の新緑、彼の背中。それらすべてがぐちゃぐちゃに滲んで、パレットに出された絵の具のようだった。


「待ってってば…!」


 震えた声が辺りに響いた。

 涙の向こうで、彼の背中が止まり、振り向いたのが見えた。


「好き! 好きなの…っ!」


 スカートを強く掴みながら、私は叫ぶように伝えた。

 怖くて、下を見つめる。ポタポタと地面に涙が落ちる音が聞こえてきた。

 そして、こちらに歩み寄ってくる足音も。


「…何言ってんの?」


 頭上から降ってきたのは、明らかに戸惑いを孕んだ声だった。


「冗談ならやめろよ」


 勢いよく顔をあげ、彼を見上げる。声色と同じように、困った表情をしていた。

 打ち上げられた魚のようにパクパクと唇を動かす。声は出てこなかった。

 そんな私から目をそらし、彼は後頭部に手を当てた。


「勘違いだって。この村には俺以外に同年代の奴いないから…」


 あんなにざわついていた体の内側が静まり返り、彼の声すらもどこか遠くに聞こえる。


「…そう、かも」


 気がついたら、私はそう返していた。声に感情は乗っていなかった。

 小さなそれを目敏く拾い上げ、彼は嬉しそうに笑った。

 私が恋焦がれた眩しい笑顔だった。


「そうだって! たく、びっくりさせんなよ」


 ほっと胸を撫で下ろし、彼はくるりと背を向けると、軽い足取りで村へと向かう。


「さっさと帰ろうぜ。今日のお前、なんか変だからさ」


 彼の背中が遠ざかるたびに視界が狭くなっていった。そして、視界は再び暗闇に染まった。


「 ─── 気分はどうかな?」


 魔女の声に、テーブルにうつぶせになっていた上半身を起き上がらせる。

 体が重く、喉も渇いている。不愉快感から眉を寄せ、顔にかかる髪をかきあげた。


「…あんまり」

「そうかい。ゆっくり休むといいよ。ジャムはまだたくさんあるからね」


 そう言われ、ジャムに目を向ける。

 窓から差し込む陽を浴びて、ジャムは相変わらず赤い宝石のように光を帯びていた。その眩しさが目に痛かった。


「…あの物語は、本当に起こるはずのものだったんですか?」


 低い声で、私は尋ねた。


「解釈は、お嬢さんにお任せするよ」

「………」


 信じてもいい。信じなくてもいい。

 魔女はそう言った。

 でも、私は信じることにした。


(あれは、きっと…本当に起こるはずの出来事だった)


 だからこそ、想いを伝えることができなかったんだと今ならわかる。

 あの頃の私は肌で彼の拒否を感じ取っていたんだろう。


(あぁ、無性に彼に会いたい)


 頭の中に思い描くのは、初恋の彼ではなく、婚約者である彼のこと。

 あの曇天のような灰色の瞳を、覗き込みたくてたまらなかった。

 私は水の入ったグラスを手に取ると、体の乾きを潤した。


「…帰り…ます」


 立ち上がり、逃げるように背を向ける。


「おやおや、気をつけるんだよ」


 出迎えてくれた時と同じく、魔女は穏やかな声で言った。その言葉を背中に受けながら、私は家の外に出た。

 すると、空からの陽光が、ナイフのように目を差した。


「…鬱陶しい」


 思わず眉をひそめ、片手をかざす。


「だから、晴れた日は嫌いなのよ」

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