問いかけに近い文章(障害者の働きに関して)
島尾
ノンフィクションになります
今日、仕事場で、知的障害をもつスタッフ2名が何度も注意されていた。私はそれを見て見ぬふりをしたという点で悪人である。あるいは知的障害者であることを知りながら彼らを健常者と同一のように見なすスタッフもおり、やはり悪人だろう。とはいえそのような状況にならざるをえない雰囲気もあった。しかも、知的障害者の彼らは明らかに作業量と労力の量が他より少なかったので、やはり悪人といえる。
知的障害者が健常者と働く意義とは何か。
精神障害者が健常者と働く意義とは何か。
身体障害者が健常者と働く意義とは何か。
難病をもつ人が健常者と働く意義とは何か。
できないことが多い人は、できることが多い人よりも劣るのか。できる人はできない人よりも偉いのか。
そうだ、と答える人は、心の余裕がない又は心が無いと思われる。違うと答える人は、何かを経験して知っている人だろう。残りは無関心主義者だろう。では私は何なのだろうか。
生産性という言葉を頻繁に聞くようになった。しかし何を生産するのか語る流れは少ない気がする。逆に、何を生産しなくてよい、生産してはいけないのかを語る者はもっと少ないと感じる。もし無用な物を生産して売れず廃棄されたら、いったいその一連の行為は何なのだろうか。
人間関係を「生産」するという発想はないものだろうか。例えば品物を200作るのをというところを185に落とし、代わりに人々の間に余裕ができたらどうか。最初は何を話せばいいかも分からず互いを敵視するかもしれない。しかし何かのきっかけで相手に興味を持ち、思いもよらぬ発見をしたならば、15減など許容範囲だと思う。もし300作ったが人間関係は破壊されて消えるとなれば、かなりまずいと感じる。
人間関係を築くことを目的とするのは間違いだと思う。良い悪い問わず人間関係は勝手に生まれるものであり、人間に制御できるはずもない。自分の目で自分の目を見て目の位置や形を変えることは不可能であることに似ている。関わりたいと思った、だから関わった、という過去形が積み重なることで人間関係は「生産」されるのではないだろうか。身の周りで「そんなに無理しなくても」と言った人がいた。私はそれを守り、そして反作用として生じた空白を埋める勇気を持ち行動をとりたい。
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