第5話 泡沫の夢

 翌朝、まだ空気に冷たさが残る時間に、タローはすでに起きて身支度を整えていた。東の空に朝日が顔を覗かせ始めた頃、彼は自作の小さな家の前に立ち、深く息を吸い込む。


「さて……名残惜しいですが、そろそろ消しましょうかねー。」


 タローが片手を軽く掲げ、空中に円を描くように指を動かすと、まるで紙の文字が一瞬で消えるように、家の輪郭が淡く揺らぎ、すぅっと空気に溶けるように姿を消していった。建物があった場所には草一本折れることなく、昨日までの空き地がそのままの姿で広がっていた。


 物陰に隠れてその様子を見守っていた宿屋の主人は、再び目を丸くし、思わず口をぽかんと開けた。


「な、なんと……本当に建物が消えてしまった……あんな立派な家を、一晩で、しかも痕跡すら残さず……。もったいない気がするなあ……。」


 タローは主人の存在に気づいていたのか、背後から聞こえた声に振り返り、いつものように柔らかな笑顔で答えた。


「たしかにもったいない気はしますけどねー。あのままだと、宿から見える景色が台無しになりますし……何より、ずっと置いといたら怪しまれますからねー。」


 そう言って、軽く手を振ると、「では、お邪魔しましたー。また寄らせてもらいますねー。」と別れを告げ、タローは足取りも軽く街の中心部へと向かっていった。


 広場にはまだ誰の姿もなく、朝靄がうっすらと漂っている。タローは石造りの噴水の縁に腰を下ろし、のんびりと朝の空気を楽しみながらぼんやりと空を見上げた。


「うーん……流石にちょっと早すぎましたかねー。ですが、こういう“何もない時間”も案外悪くないんですよねー。」


 懐から取り出した小さな包みを開き、中から出てきたのはマカダミアナッツチョコ。どこの世界で手に入れたかはもう覚えていないが、こうしたちょっとした甘味が、旅先の朝にはよく似合う。


 そのチョコを口に放り込んだ頃、誰かの足音が近づいてくるのに気がついた。振り向くと、そこには昨日の回復魔法で若返った女性がいた。落ち着いた装いに身を包み、肌には張りがあり、瞳は生き生きと輝いている。


「あら、旅のお方。昨日は本当にありがとうございました。こんな朝早くから広場にいらっしゃるなんて……まさか、宿には泊まれなかったのですか?」


 タローは軽く頷きながら応じた。


「ええ、満室だったんですよー。なので、ちょっと魔法で家を作って、裏の空き地で休ませてもらいましたー。快適でしたよー。」


 女性は目を見開いて驚いたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「やっぱり、ただの旅人ではなさそうですね……魔法で家を造るなんて、本当にすごい方なんですね。」


 タローは肩をすくめて軽く笑う。


「まあ、異世界をあちこち旅してると、自然と色々なことができるようになるもんなんですよー。魔法って便利ですからねー。」


 女性は改めてタローに深くお辞儀をし、優しい声で語りかけた。


「昨日の回復魔法もそうでしたが、本当に素敵な力です。私……自分の人生がもう一度始まったような気がしています。あなたのおかげで、これから先の毎日が楽しみになりました。」


 その言葉に、タローはいつもの調子で微笑み返す。


「それは何よりですねー。人生って、長くても短くても、一度きりですからねー。せっかく手に入れた新しい時間、思いっきり楽しんでくださいよー。」


 やがて広場に陽が射し、街の人々が少しずつ動き始める気配が漂い始めた。パン屋がシャッターを開け、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえてくる。


 タローは静かに立ち上がると、空を見上げてひとつ伸びをした。


「さて、そろそろ行くとしましょうかねー。」


 名残惜しそうにタローを見送る女性だったが、すぐに笑顔を取り戻し、深く頭を下げた。


「お気をつけて。またいつか、この街に戻ってきてくださいね。」


「もちろんですよー。またふらっと来ますからー。」


 そう言い残し、タローは軽やかな足取りで広場を後にした。次の目的地は、まだ決まっていない。それでも彼にとっては、それが旅の醍醐味であり、楽しみでもあった。


 朝日が完全に街を包み込む頃、タローの背中は、クレシェの街並みに溶け込むようにして遠ざかっていった。その背に、新たな思い出が一つ、静かに刻まれていた。

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