第12話 ブレイクスルー

 夜の帳が降りた首都圏郊外、厚く垂れこめた雲の下、極秘施設「S-06」は静かに呼吸を続けていた。

 ここに記録されたすべては、政府の正規の文書体系にすら存在しない。


 午後11時12分。

 裏手の搬入口に、異常を示すログは存在しなかった。

 だが、何かが“入った”。


 ひとつの影──男が歩く。

 グレーのスーツ、端整でも平凡でもない顔。だが、その歩様には異質な滑らかさがあった。


 彼は監視カメラの視界を自然に回避し、警戒セクターの光センサーを斜めに切るように進む。

 施設の構造を把握している者の動きだった。


 金属扉の前で、彼は止まる。

 静かに、左手から細身の認証カードを取り出し、読み取りスロットへ滑らせた。

 認証音は鳴らない。扉は、ただ黙って開いた。


 中には、拘束された技術者が一人。

 男は何も言わず、無表情のまま部屋へ入る。

 照明が彼の背後でわずかに揺れたとき、技術者がわずかに顔を上げ──その直後に崩れ落ちた。


 何も発せられなかった。

 衝撃も、音も、抵抗も。

 何もなかったかのように、男は端末へ向かい、機器を操作する。


 モニターの奥で、彼の指が静かに踊る。


 一見して庶務データベースに見える管理端末の隠しシェル。

 彼の右手がシーケンスを繋ぎ、左手が認証コードを滑らせる。

 構成ファイルがひとつ、二つと書き換わっていく。


 その動きは、まるで朝の報告メールでも送っているかのように自然だった。


「……」


 彼は言葉を発しない。

 ただ、最後のキーを押す。


 S-06 管理系統:異常遮断


 遠くの建物で、警報が鳴り始める。

 甲高く、空気を裂くようなアラート音が施設全体に響き渡る。


 ──避難指示発令──


 施設の照明が赤に切り替わり、非常灯が壁際に点滅する。

 警備員たちが駆け出し、端末に取りすがる職員の背後には混乱が波のように押し寄せていく。


 隔離フロアの施錠が一部解除される。

 誰かが、拘束されていた技術者の死体を発見するまで、数分の誤差がある。


 その間に、記録は改竄され、監視データの一部は切断された。

 ログには「自動再起動」の一行だけが残る。


 誰も、ここからの“消失”を止められない。


 ⸻


 合同庁舎のモニターに、かすかに赤いアラートアイコンが点滅する。

 彼は、それを見つめることもなく、背筋を伸ばし、書類を一枚手に取った。

 周囲では何も変わらぬ日常が続いていた。

 誰も、彼のモニターに何が表示されていたかなど気にも留めていない。


 廊下をひとり歩きながら、彼は自販機の横で立ち止まる。

 缶コーヒーを取り出し、開ける。ひとくち、口に含む。


「──佐々木さん、遅くまでお疲れ様です」


 通りすがりの若い職員が声をかける。

 佐々木と呼ばれた男は、目を細めた。


「ああ、お疲れ様」


 その声には、何の感情もなかった。

 缶を持った手が、微かに震えていたことに、誰も気づく者はいない。


(続く)

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