第10話 イグジステンシャル・ゴースト
取調室
部屋の空気は、静かに淀んでいた。
矢吹蒼一は、背広の上着を脱ぎ、シャツの袖を折って椅子に腰を下ろした。
耳元には、細いイヤーピース──ゼロ隊専用のインカム。
「チェック、ワンツー。聞こえるか?」
矢吹が口を動かさず、わずかに囁く。
《こちら篠原、クリアに入ってるわ。心拍感知も再開》
《真鍋だ。外部回線遮断済み。映像は録画中》
「了解」
矢吹は短く応じ、視線を目の前の男に向けた。
マティアス・レーヴェ。
深く座り、手を組み、表情を変えずに矢吹を見返している。
「また来たのか。何度やっても、私は言わないぞ」
「それはどうかな」
矢吹はあくまで穏やかに言った。
「最初の話は“亡命理由”だった。次は“アクセス・ログ”の存在。そして今回は……“H-04”について」
マティアスの瞳が、一瞬だけ動く。
《篠原。咬筋に反応》
《心拍、微増。皮膚温も0.2度上昇中》
矢吹はその変化に触れず、言葉を継いだ。
「お前がログを持ち出した理由、わかってきたよ。“国内の誰か”が、お前らの施設にアクセスしていた。それをお前は恐れた。裏切られたと思った──そうだろ?」
マティアスは返さない。静かな沈黙。
矢吹はポケットから、1枚の写真を取り出してテーブルに置いた。
「この構造体、“H-04”だろ」
「……どこで手に入れた」
初めて、マティアスの声が揺れた。
《来たわね》篠原の声が入る。《今、眼球運動のデータが大きく跳ねた。外周を探ってる、逃げ場を探すときの反応》
「やっぱり図星か」
矢吹が言う。「だが安心しろ。俺たちは、それを隠すつもりはない。お前が知ってることを、聞きに来ただけだ」
「……何が聞きたい?」
「“ミナト”についてだ」
マティアスの指が、わずかに動いた。テーブルの縁を掴む。
「“ミナト”は……プロトタイプだ。“H-04”の前段階。だが……制御に失敗した。接続した人格が暴走し、全体制御が不可能になった。日本側も、その事故を知っているはずだ」
《人格……今、言ったわね》篠原が低く呟く。
《おそらく、ネットワークと接続するAIではなく、“人間の人格”を保存・運用していた構造体だ》
「それを復旧させたのが“H-04”ってわけか」
矢吹が冷静に返す。「“人格保管型データベース”の完成形。誰かが、そこにいる」
マティアスの瞳が、初めて明確に揺れた。
「……その中には、まだ、生きている人間がいる。だが彼らは、“忘れられた存在”なんだ」
《心拍が一気に跳ねた。隠せなくなってる》
「その中の一人が、“ミナト”って名前を持ってたのか?」
矢吹が畳みかける。
マティアスは息を詰めた。
「いいか、日本では忘れてるかもしれないが……“彼女”は、まだ存在している。お前たちが切り捨てた誰かが、あの中に閉じ込められてる」
矢吹は視線を外さないまま、低く呟いた。
「……名前を言え。そこから、始めよう」
矢吹の問いに、マティアスはしばし沈黙を保った。
その沈黙は、尋問の空白というよりも、何かを選別し、内部で整えている気配だった。
テーブルの下で指がわずかに動く。思考の渦が静かに回転している。
やがて──
「ミナトは、コードネームじゃない。彼女は、かつて実在した人物だ。正式名は《蓮見水奈(はすみ・みな)》」
《蓮見……?》インカム越しに篠原の声が漏れる。《ちょっと待って、記録を照合する》
マティアスは続けた。
「彼女は、十年前、SENBA研究区画で事故に巻き込まれた。外部には“死亡”と報告されたが……実際は、意識転送の初期被験者として、H構造体に組み込まれた」
矢吹は眉をわずかに動かす。
「“死んだ”ことにして、実験体にしたのか?」
「違う。彼女自身が志願した。少なくとも、建前上は……だが、制御は失敗した。彼女はデータの中で“暴走”した。その記録はすべて封印された」
《来た。データ照合完了》篠原の声。《2030年現在、蓮見水奈の戸籍は“抹消済み”。事故は2020年、火災──いや、これは“実験失敗”の隠蔽だわ》
《真鍋だ。ゼロ隊内には当時の事件に関する直接資料は存在しない。が、外務省と厚労省間で何度か“人格保全”に関する意見書が交わされてる。全ては“選別的保全”の名のもとにな》
矢吹の眼差しが鋭さを増す。
「……お前たちは、それを復元して、“生かした”というのか?」
「“眠らせていた”が正しい。だが、ある時期からアクセスが始まった。“彼女”を起こそうとする動きだ。それが俺の動機だった。アクセス・ログを解析して、それを止めたかった」
「それが、国内からだった……?」
マティアスは頷いた。
「身元は不明だが、特定の政府系ネットワークを経由していた。おそらく、何者かが“彼女”を再起動させようとしている。“蓮見水奈”を、再び」
矢吹は言葉を止め、静かに立ち上がった。
「わかった。必要な情報はもらった」
マティアスはうなだれるように座り直し、低く言った。
「お願いだ……もし、“彼女”を完全に目覚めさせたら、それはもう人間じゃない。お前たちの手には負えなくなる」
矢吹は無言のまま背を向け、部屋を出る。
インカムに声が入った。
《……矢吹、戻って。全員で整理する》
「了解」
そして彼は、重たい情報を携え、取調室のドアを静かに閉めた。
(続く)
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