第2話 ウォッチリスト

 午後の陽が傾きかけた成田空港。

 民間機のタラップを降りた中年の男は、濃紺のコートに身を包み、無言で足早にゲートへと向かった。

 マティアス・ネメチュク――かつてヴェルカスタン陸軍で中佐の階級を持ち、軍事諜報部門の中枢に身を置いていた人物。退役後は長らく消息を絶っていた。


 到着ロビーの奥で控えていたスーツ姿の男が彼を確認し、すっと前に出る。

「中佐、こちらへどうぞ」

 声をかけた男は、ごく自然に英語を用いていた。その発音は流暢で、通訳を介す必要すらないほどだった。


 ネメチュクは無言で頷き、そのまま同行する。

 手荷物はその場で別の職員に預けられ、本人は空港内の別動線を経由して、都内の一施設へと搬送された。


 施設に到着すると、迎えた内調の職員ふたりが小さな部屋へと案内する。

 ひとりは若く、英語を自在に操る口の立つタイプ。もうひとりは年配の、慎重で寡黙な男だ。


「我々は内閣情報調査室の者です。まず、あなたが保持しているという情報について、概要を確認させてください」


 ネメチュクは目を合わせず、整った調子で応じた。

 会話は終始英語で行われているが、やり取りは滑らかで通訳を必要としない。

 彼の語調は抑制されていて、妙な緊張感すら漂わせていた。


 室内には目立たぬ形で生体モニターが設置されていた。

 測定されている心拍数に異常な上昇は見られず、顔の筋肉にも強張りはない。

 彼は意図的に緊張を制御している――そう結論づけるしかない、奇妙な“静けさ”だった。


「彼、よく訓練されてるな」

 若い職員が日本語で呟くと、年配の男も小さく頷いた。


「口調は抑えてるが、言葉選びが慎重だな。現場にいた実務家って感じじゃない。情報士官だ」


 会話の中身は確かに筋が通っていた。

 北方面軍の配置、地対空ミサイルの種類、指揮系統の細部に至るまで、理路整然としている。


 だが――何かが「整いすぎている」。


「で、ウチに来たわけか」


 相手は苦い顔をして頷いた。


「“第零分隊”が動くって聞いたぞ」


「今じゃ知ってる人間の方が少ないがな」


 控えめなため息とともに、資料の中の人物――軍服姿の中年男の顔写真に視線が落ちる。


「元・中佐。軍の情報部門にいた。英語は堪能、ヴェルカスタンじゃ珍しく米国で訓練受けてるらしい」


「アメリカの大学に籍を置いてたって話もある。ノーウィッチだったか?」


「そんなところだ。で、本人曰く“重大な国家機密”を持って来てる、と」


「国交のある国からの亡命だ。外務も公安も慎重になってる。下手に保護して外交問題になっても困るしな」


 しばし沈黙が続き、そして低い声が続ける。


「ただの政治亡命ならまだしも……本人が“軍事諜報の中枢にいた”なんて言い出すから、余計ややこしくなる」


           *


 港区の高層ビル群のひとつ。防災訓練棟と偽装された建物の地下深くに、第零分隊専用のブリーフィングルームがある。


 高城誠がホログラム投影の操作を終えると、壁面に一人の男の顔写真と出入国履歴、経歴書が浮かび上がった。


「――マティアス・ネメチュク。年齢38歳。ヴェルカスタン陸軍の元中佐で、軍事情報局に所属していた人物だ。2日前、羽田に到着し、現在は内閣情報調査室の管理下にある」


 ホログラムには、ヴェルカスタン国旗とともに、どこか寒冷な風土を思わせる風景が映し出されていた。


「情報によれば、彼は母国の軍事体制に関する極めて重要な内部情報を所持していると主張している。しかし――」


 高城は少し間を置いてから続けた。


「――本人の供述には、いくつか不自然な点がある。話の辻褄が合わない箇所が複数ある上に、提供されている軍制情報の時期が妙に曖昧だ。決定的なのは、“機密の分類方法”が現在のヴェルカスタンの運用と一致しない」


 隊員の一人が口を開く。


「偽者の可能性もあるってことですか?」


「現段階では“限りなくグレー”だ。だが、本物であれ偽者であれ、裏には何かある」


 高城の視線が、壁際に立つ一人の男に向けられる。


「矢吹。お前が接触しろ。彼は英語を話す。お前が一番適任だろう」


「了解」


 矢吹蒼一は短く返事し、軽く顎を引いた。


 高城はわずかに声を低める。


「相手は退役軍人、かつ情報局上がりだ。向こうが何を仕掛けてくるか分からない。くれぐれも一言一句を見逃すな」


 矢吹は頷いた。海外での任務経験の豊富な彼にとって、軍人崩れとの会話は珍しくもない。ただ、今回は「日本で」、という点が異なる。防諜の最前線。それが第零分隊に課せられた今回の任務だった。


(続く)


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