沖田総司異聞 ―哭く剣、愛を知るまで― (再構成版)

斉宮 柴野

第零幕 剣は快楽、愛は殺意

 文久三年、九月十六日。京の都。


 


 この日、わたしは――自分の本性を悟った。




 「ねえ、本当にやるつもりなの?」


 樹がそう言った。

 彼女の声は春先の水みたいに、少し冷たくて、それでいて心地よかった。


 緑がかった黒髪を肩で切りそろえた剣士――鈴木樹。

 笑ったときに、ほんの少しだけ目尻が下がる。その仕草が、わたしは嫌いじゃなかった。


 でも、いまの彼女は、いつものように軽やかな笑顔を浮かべているくせに、心の奥では本気でわたしの答えを待っている。

 そういうときの樹は、どんな剣客よりも怖い。


 


 わたしは、できるだけ“いい笑顔”で応えた。


 「うん、わたしはもう決めたの。」


 それが正しいことなのかは分からない。

 だけど、これがわたしの“プログラム”にとっての正解なんだと思う。

 剣士として。誰かの命令じゃなく、わたし自身が選んだこと。


 


 この一言で、きっともう元には戻れない。

 今まで積み重ねてきた何かが、ここで全部変わってしまうかもしれない。

 それでも、もう止まれない。止める気もない。


 


 だから言おう。

 親友へ、好敵手へ、恋敵へ。

 すべての気持ちを込めて。


 


 「わたしは、芹沢先生を斬るよ。」


 











ねえ、生まれ代わりって、信じる?


わたしには前世があった。そう確信している。

だけど、今のわたしは、生まれた時からずっと、不思議で仕方がなかった。


人間はどうして笑うんだろう。どうして泣くんだろう。

なんで怒ったり、傷ついたりするんだろう――


わたしには、何も感じられなかった。ただ、すべてが謎だった。


それでも、人はそんなわたしを見て「気味が悪い」と言った。

なら、身に着けるしかない――どんなとき、ひとはどう思うものか。

ひとりひとりの仕草や、言葉や、表情を、何度も観察して、真似をした。


それが、自分の“生きていくための手段”になっていた。


前世で気づいたときも、今またこの幕末の世に生まれなおしても、結局それは変わらなかった。


人は不思議だ。

でも、うらやましい。


本当は――みんなと同じになりたい。

あの、心から笑ったり泣いたりできる人間になりたい。

ただ、それだけなのに。
















樹はそのまま、笑顔を崩さず刀を抜いた。


 「それなら――あたしは先生を守るだけ。司、あんたでも、斬るしかなくなるよ」


 その声が静かに響く。少しも揺れていない。

 まるで冗談を言うみたいな顔のままで、本気の殺意を隠そうともしない。


 


 「なんで斬るの?先生は、あんたのことをあんなに大事にしてたじゃない。あたしが嫉妬してしまうほどに」


 樹の言葉は、たしかにわたしの心の奥まで届いた。

 だけど、もう止まれない。


 


 わたしも、笑顔のまま刀を抜いた。

 笑顔はたぶん、もう癖みたいなものだ。感情を隠す仮面みたいなもの。

 それでも、今だけは本当に楽しかった頃の記憶が――皮肉にも、剣を向け合うこの瞬間にだけ、鮮やかによみがえった。


 


 「……だからこそ、だよ。樹。わたしは、きっとこのままじゃ進めない」


 


 対峙したまま、わたしたちはどちらも一歩も引かない。


 笑顔のまま、心はもう――剣先よりずっと冷たく、そして、どこか熱く震えていた。

















息をしている。血も流れている。体温だってある。


だったら、わたしは人間のはずだよね?


でも、じゃあ、なんで――こんなに、何も感じないの?


誰かが笑ってても、泣いてても。

抱かれてても、撫でられてても。


胸の中は、空っぽのまま。


だけど、斬ったときだけは違った。

あの刃が、骨を断った瞬間だけは――


熱くなる。脳が痺れる。足が浮いたみたいに、わたしが“生きてる”ってわかるの。


だったら、それが答えじゃない?


斬れば感じる。


つまり、斬ってるときだけ、わたしは――人間なんだと思えるの。
















樹が静かに口を開いた。


「何の理由もなく人を斬るのは……そう、“悪”ってやつじゃないの?」


目は笑っていた。でも、その奥にあるものは、切先よりも冷たい。


「ましてや――味方であるはずの筆頭局長を斬ろうだなんて。」


わたしは微笑んだ。笑ってるふりは、慣れている。


「人を殺すのが悪?そんなことは知ってるよ。」


「でも、わたしはいま浪士組。斬るのが仕事。だから、斬ってもいいんだよ。」


「いいの。上が許す。任務なら。だから斬るの。」


樹の手が、無言で柄に添えられた。


「……自分が何を言ってるかわかってる?」


わたしは、はっきりと頷いた。


「わたし、斬ってないと――人間じゃなくなるの。」


「何も感じないの。誰といても、何をしてても。空っぽなの。」


「でも、斬ったらわかるの。生きてるって。ああ、わたしはいま、“いる”って。」


「だから、斬るしかないじゃない……!」













わたしは、怖くなかった。


手にした刀の冷たさも、目の前に立つ樹の気配も、心に何も引っかからなかった。


ただ、あるのは一点――“斬りたい”という衝動だけだった。


血が欲しいわけじゃない。死を望んでるわけでもない。


ただ、その瞬間にだけ、わたしは“感じる”のだ。


ああ、生きてるって。


それ以外、なにも感じられないわたしには、それだけが確かな“人間らしさ”だった。


だから、斬る。

それが、わたしの存在証明。


でも――


気付いてしまったんだ。


そんな風に、見境なく人を斬る奴が、人間なわけがない。


本当は、ずっと分かってた。

それを見ないふりをしてた。

「任務だから」「命令だから」「必要だから」って、言い訳を並べて。


でも違う。

わたしが斬っていたのは、わたしのためだった。

感じたいから。

確かめたいから。


「だから、わたしは……人間じゃないんだ。


わたしは――


そういう「物」なんだよ。」
























「でも――嫌なんだ。


わたしは、人間だ!

ちゃんと、心を持った、痛みを知って、誰かを好きになれる、“人間”なんだ!!


……なりたいんだ。

そう思ってる。

ずっと、ずっと、そう願ってる。


もっと気持ちよくなれたら、人間になれるかもしれないって思った。

斬ることで、確かめられるかもしれない。

この体、この心が、本当に“生きてる”って――


わたしにも、人を愛せるって、信じたいんだよ!


だから――


芹沢先生は、わたしが斬る。

わたしを肯定してくれた、

このおかしな、壊れたわたしを“それでいい”って言ってくれた先生を――


わたしが、ちゃんと斬る!!


そうすればわたしは、きっと人間だって証明できる!


だから……だから、樹。


あなたは――邪魔なんだよ。


先生を守る?

そんなこと言って、本当はあんた、自分の居場所を守りたいだけじゃない!


立ちふさがるなら……

いくらあんたでも、斬る!!!」





血が、沸騰する。


心臓が喉まで上がってくるのに、不思議と苦しくはない。

頭の中はやけに澄んで、まるで鏡面の水面のように静かで――ただ、そこにはひとつの思いしか浮かばない。


殺したい。

斬りたい。


目に映るものすべてが遅く見える。呼吸も、声も、動きも。

それなのに、自分の体だけがまるで弾かれたように動いていく。


痛みはない。熱も、冷たさも、もうどうでもいい。


ただ、わたしは――斬りたい。











樹が笑顔のまま口を開く。

「……あなたの目、赤いわ」

「まるで鬼――そう、剣の鬼ね」

「人を斬るたびに、あなたは“人”じゃなくなっていく。……それが、あなたの本当の顔?」


樹の言葉に、わたしは瞬きもせずに返した。


「……それでいいよ。わたしはそれで、いい」


「鬼でも、なんでも。

 今のわたしには、それしか残ってないから――」


息が白く滲む。

こんなにも身体が熱いのに、凍てつくような冷たさを感じていた。


「剣の鬼ね……」

樹が繰り返すように呟いた。


「私は、先生の剣。

 この命は、先生に振るうべきもの。

 そして、私は先生の女。

 先生が愛し、守り、選んだもの。」


「だから――」


「余分なあなたを、斬る。」



その声に迷いはなかった。

わたしと同じだ。迷ってない。

なのに、なぜかほんの少し、胸が痛んだ。


いや、違う。

これはきっと、ただの鼓動の高鳴り。

血が踊っている。

斬り合えることが、嬉しいのだ。


「来なよ、樹」

わたしは静かに言った。

「きっとわたしたちは、ここでしか、通じ合えないから」


刹那、風が吹いた。

誰かの気配も、世の喧騒も届かない、境界の静寂。


何かが閃光のように脳裏に走った。




ーーわたしのはじまりーー


小さなわたし、小さな手、土と泣き声と、笑っているふりをした顔


あれから、わたしは何を失って、何を知ったのか。


でもーーーーーーわたしは、間違っていない。




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