(28)あはうみの光

 ケーブルカーの駅に着き、アズサが涙をぬぐっていると、次のケーブルカーが上の方から降りてくるのが見えた。今日は特別視界が良い好天、というわけではないが、一応晴天で、琵琶湖もよく見えるだろう。ケーブルカーが到着すると、二人は、ケーブルカーの下側、すなわち後端の麓側の席に、後ろ向きに座った。ここに座れば、上に上れば、眼下に琵琶湖が見える。二、三分待つと、いよいよ出発である。

 ドアが閉まり、ガクンという振動とともにケーブルカーが動き出す。若い女性二人連れだからなのか、アズサとアヤミはその振動で、手を取り合って顔を見合わせる。二人とも笑みがこぼれている。楽しくて仕方がないらしい。

 

 あっという間に出発駅の駅舎が小さくなり、周囲の景色に吸い込まれていく。麓の駅は湖に近いので、少々上ればすぐに湖面は見えてくるが、やはり高いところからの眺望を期待したくなる。アズサとアヤミは、チラチラ見える湖面を見ると、お互い顔を見合わせる。「ほらほら、だんだん琵琶湖が見えてきたよ」という意思疎通である。もうなにか、本当の姉妹のように見えてもおかしくなかった。山上の駅に近づくと、湖を見下ろすようになり、湖面が一層はっきりと見えるようになる。このケーブルカーは、車内から琵琶湖が見えることで有名だが、車窓はやはり左右が木々にさえぎられていて、パノラマ的ではない。山上駅には、駅の上に琵琶湖を見張らせる展望台があり、そこに行けば、左右に開けた琵琶湖の風景が見える。

 

 二人は、ケーブルカーの中からも湖面を見ていたが、山上駅に着くと、早速、駅の上の展望台に上がった。

 

 「うわぁ、これか!」

 

 アヤミが大きな声で歓声を上げる。さっき涙を流していたアズサは、悲しさが直った反動なのか、アヤミより大きいぐらいの声で、

 

 「わあ、すごいやん!」

 

と同じように歓声を上げる。今の時間は、ちょうどやや逆光で、湖の上に太陽がある。アヤミが早速気づく。

 

 「あ、太陽が背にある時も湖は光っとったけど、太陽が正面にあると、湖面が真っ白や。そうか、そういうことか」

 

 「そういうこと」というアヤミの言葉は、恐らく単純に、逆光の湖面は、順光の湖面よりも明るく見える、ということを言っているだけだったのだが、隣でそれを聞いていたアズサは、アヤミに何かが降りてきたのだ、というように受け取った。

 

 その時、また不意にそよ風が吹いてきた。その風は、富士山の山頂で、アズサの前髪とアヤミのポニーテールを揺らしたのと同じように二人の髪を吹き抜けていった。

 

 「ウチらさぁ」

 

 アヤミがアズサに言う。

 

 「こうやって二人できれいな湖を見て、気持ちいい風が吹いて来とって、それでなんかアイデアが降りてくる、ってそういうようにできとんのかな」

 

 「ウチはアイデアは降りてこんけど、アヤミとおって、幸せな気持ちにはなるん」

 

 「そうか。湖で風に吹かれるとアイデアが降りてくるんは、ウチだけやな。アハハハハ」

 

 二人は数分、琵琶湖を眺めていた。その間、アヤミは身じろぎもせず湖面を眺めていた。アズサはアヤミのその姿を眺めていたので、結局、展望台から二人の若い女性が琵琶湖の湖面を、全然動かずにじっと眺めている図になっていた。

 

 数分間琵琶湖を眺めていたアヤミは、アズサが予想していた通り、

 

 「アズサ、ちょっとPCいじってええ?」

 

と聞いてきた。アヤミの頭にアイデアが降りてきたのだろう。

 

 「うん、もちろん。書き書き!」

 

 アズサもうれしそうに勧める。

 

 「うん、二十分かそこらやから、ちょっと待っててな」

 

と、展望台から降りて、駅前広場の隅のベンチに座って、自分のノートPCを取り出した。富士山の山頂と同じに、猛然とメモを打ち出す。アズサがその様子を隣で見ていると、もう、手元を見ない「タッチタイピング」を超えて、アヤミは目をつぶってタイピングしている。つまり画面も見ないで、自分のアイデアを正確に打ち込んでいた。アヤミが画面を覗くと、メモの文章はほとんど打ち間違いがなく入力されている。

 アヤミの行動にはもう大して驚かなくなっていたアズサだが、これはさすがにすごい、というより、「自分の姉がすごい能力を持っている」というような感覚の、ある種のうれしさに近い感覚を持っていた。


 ずっと隣でのぞき込んでいるのも申し訳ない、というか、手持無沙汰でもあるので、アズサはアヤミの隣からそっと立ち上がって、駅の周囲の様子を見て回った。琵琶湖の湖面の他は、両側が緑の山並み、ケーブルカーの山上駅の駅舎はベージュ色の瀟洒な、そしてごく小さな建物で、周囲の緑によく似合っていた。駅舎の脇から、延暦寺方面へ行く歩道が延びている。

 アズサは、駅の前を一通り見て回ったが、駅前の広場と言ってもささやかなものなので、二、三分もあれば十分だった。もう一度ベンチのアヤミの所に戻り、隣に座る。アヤミは文字通り一心不乱にメモを入力していたが、先ほどと違って目は開いていて、隣のアズサをちらっと見て、ニコリとほほ笑む。アイデアの入力は順調、という意味であるのは、アズサにはすぐ分かった。

 

 「よっしゃ、終わり!」

 

と、アヤミが最後のエンターキーを右手の小指でパン!とはじく。

 

 「お待たせ。うまく書けたよ。ばっちりや。アズサのおかげやん」

 

 「なに? なんもしとらんよ、ウチ」

 

 「アズサがおらんかったら、こんなん、バーッと書けるわけあらへん。ウチの文章の半分以上は、アズサが書いてくれてんとおんなしや」

 

 「意味わからんけど、書けたんならうれしいよ」

 

 「アハハハハ、アズサ、いつもかんにんな」

 

 「せやけど、目ぇつぶって入力て、ホンマすごいな。なんでそんなん?」

 

 アズサがアヤミの入力のすごさを尋ねる。アヤミはちょっと困惑したような表情で、

 

 「うーん、なんて言うか、画面見とると、入力を間違うねん。目ぇつぶっとった方がスムーズに打てる」

 

 ほとんど「道を究めた人間」のような感想に、アズサは、

 

 「なるほど」

 

と、短い感想を言うしかなかった。

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