(20)大津に呼ばれる

 アズサが、アヤミ、ヨウスケ、父と行った富士登山も無事終わった。九月になり、登山口も閉じられてしばらくすると、アヤミの原稿の締め切りが近づいた。アズサは相変わらずアヤミとリモート会議を行い、原稿の進捗を把握していたが、筆の進み方は非常に順調で、この分だと、締め切り前に原稿が上がりそうであった。アズサからの進捗報告を受けている文芸・学術部長は、

 

 「さすが勝部先生だね。初回設定締め切り前に原稿が上がるなんて、めったにない、というか、自分じゃ聞いたことないね。私も特に小説の原稿取りは、ホント苦労したからね」

 

と少々戸惑うような喜びの表情だった。アズサにとっては、出版社に入って初めての小説原稿の担当だったので、普通がどういうものかは直接分からなかったが、他の先輩たちの苦労話も聞いていたので、自分のこの仕事は、ずいぶん順調なんだろうと感じていた。

 

 アズサが他に任されていた「多摩土木」誌の九月号は無事に仕上がり、「宇宙エレベーター」の入門書も、結局、時々アヤミにリモート会議の中で質問していたので、アズサ自身での勉強も、内容がだんだん分かるようになり、こちらの原稿を書くライターや作画担当者とはおおむね順調だった。今はまた別の、歴史探訪の新書やクイズ雑誌なども手伝っているが、何をやってもそつなくこなす、というよりは、最初に分からないところを素直に聞く性格が幸いして、どの仕事も初めは「手取り足取り」的に教わることが多く、アズサ自身も、自分を「なんとか切り抜けられるタイプ」と考えていた。

 

 ある日、いつものようにアズサがアヤミと簡単なリモート会議を行っていると、アヤミが急に、

 

 「なあ、アズサちゃん、今週末、こっち来いひん?」

 

と、大津に来てほしいと言い出した。アズサは、

 

 「え、なにか用事ですか?」

 

と聞き返す。アヤミは

 

 「うーん、一緒に行ってほしいところがあるんよ。もちろん仕事と関係しとるよ。あかん?」

 

と、本当の姉妹のようにねだる。もう少し詳しく聞きたいアズサは

 

 「どこ連れてってくれはるんですか?」

 

と聞き返す。

 

 「比叡山」

 

 アズサが答える。京都市と琵琶湖の中間に位置する比叡山は、京都側からも琵琶湖側からも行ける。琵琶湖側から行く場合は、アズサの実家がある唐橋前駅から京阪線に乗って、そのまま北の終点まで行けば、ケーブルカーに乗って訪れることができる。このケーブルカーは、上に行くと車内から琵琶湖が一望できることで知られている。アズサも、もう、多少、妹気分で、

 

 「延暦寺で修行でもしはるんですか?」

 

と冗談めかして言う。

 

 「ちゃうよ。ケーブルカー。ケーブルカーで琵琶湖を見たいんよ。アズサと一緒に。宇宙エレベーターとちゃうで。比叡山ケーブルカーや」

 

とアヤミが答える。すでにアズサのことは、他の人がいなければ、呼び捨てになることが多かった。

 

 「ケーブルカーで琵琶湖見ると、なんか降りてくるんですか?」

 

 周囲に他の社員もいるので、一応敬語を使っているが、アズサも心の中ではもうほとんど友達か姉妹のように感じていた。

 

 「うん、降りてくるゆうか、原稿の最後の締めが、今一つ決まらんの。それにケリをつけたい。なんかな、一人で行ってもええんやろうけど、なんや、アズサと一緒に行きたいねん。ウチの心が、アズサと一緒に行け、言うてるんよ。なんなんかな、これ」

 

 「さあ、分かりまへんけど、なんでしょうね?」

 

 アズサも、アヤミの心の中はよく理解できなかったが、アヤミならそんなことを思うのも不思議でないし、自分が大津に呼ばれるのは単純に嬉しかった。大津は、つまりアズサの実家のあるところで、今年になってからは帰省していないし、八月の富士登山以降は父親とも会っていない。今週末であれば、金曜の定時後に新幹線で大津に向かい、土日に実家に滞在して、アヤミと会う合間に両親に会うこともできるだろう。

 

 「アズサ、週末帰省になっても、ちゃんと仕事扱いにせなあかんよ」

 

 アヤミがアズサを費用面でも気遣う。

 

 「アズサが仕事で大津に来るなら、きちんとウチがアズサを仕事で大津に呼ぶいう話にするから、部長さん呼んで。おられる?」

 

 「あ、はい、部長、今、おります。呼んできます」

 

 アズサが部長を呼びに行く。

 

 「部長、すみません。勝部先生が、ちょっとお話ししたいと」

 

 文芸・学術部長が、アズサと一緒にリモート会議のPCのところに行く。

 

 「はい、勝部先生、なんでしょうか?」

 

 「あ、すみません。原稿の最後の締めの所で、ちょっと川途流さんとご相談したいことがあって、それで、取材の締めみたいなことで、今度の週末、いや、月曜日でいいんですが、大津の、比叡山から琵琶湖を見るような取材をしたいんです。その時、やっぱり川途流さんがいてくださったほうがいいかな、と思って、川途流さんをこちらに、大津に寄せていただくことはできるでしょうか?」

 

 アヤミは、アズサと会って仕事の話をするなら、実家へ帰省する形でなく、月曜日の日帰り出張扱いにできれば、実際アズサが週末実家に帰っても、会社の出張命令も出やすいし、往復の交通費分は会社から出してもらえるだろうと考えた。アヤミは、やや苦しい感じもする説明を部長にしてみた。部長は、数秒考えているようだったが、

 

 「あ、はい、いいですよ。日帰りですか?」

 

 「えっと、アズサちゃん、日帰りでええ? せっかく大津に来るのに日帰りだと実家に寄れへんな」

 

 アヤミが、アズサが帰省できるように、部長を誘導する。

 

 「え、はい、…ワタシは月曜の日帰りでも大丈夫ですが」

 

 さすがにアズサ自身から、帰省と併せて出張させてほしい、とは言いにくかった。その言葉を受けて、部長が返答する。

 

 「はい、じゃ、それで申請しておきます。日程などは川途流と相談して進めてください。それから、川途流さん、月曜日に大津に日帰り出張なら、金曜日の定時後に会社出て、実家に戻ってゆっくりしていきなよ。宿泊代は出ないけど」

 

  部長は、アヤミの考えも含めて、全部わかっているようだった。

 

 「ありがとうございます」

 

  アズサの代わりに、アヤミが礼を言う。出張OKのお礼というより、アズサの帰省も兼ねるのを理解してくれたことへのお礼だった。

 

 「はい、原稿楽しみにしてます」

 

 部長は、あえて、アズサの帰省を兼ねた出張を勧めたことには触れないような返事を言って、自分のデスクに戻った。再び、会議はアズサとアヤミだけになった。アヤミは、

 

 「なんか、いきなり来てゆうてかんにんな。都合大丈夫?」

 

とアズサに確認する。

 

 「大丈夫やけど、ウチ、そっち行ってどうしたらええのん…、ですか?」

 

 うっかりため口になりそうだったのをあわててごまかす。

 

 「さっき言うたみたく、ウチ、ホンマ、比叡山の上から琵琶湖を見たいんよ。前の、文学賞もろた時には、石山のマンションから見たけど、あそこやと十階やそこらやん。もっと高いところから琵琶湖見てみたい」

 

 アズサは、今一つアヤミの考えていることが分からなかったが、恐らく、先日の富士登山で、執筆のアイデアが「降りてきた」と言っていたのと同じことが起こるのだろうと想像した。それでも、またアヤミに直接会えるということは、素直に嬉しかった。

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