(6)取材

 翌日から十日ほど、アズサは毎日アヤミと一緒に取材や打合せをした。当然、アズサは他の仕事も抱えているので、結構な忙しさになった。アズサが自宅に帰るためには午後十時過ぎに会社を出る必要があるが、終電に間に合わず、会社に泊まり込みの日もあった。

 もっとも、この出版社は時間に不規則な執筆者とも多数仕事をしているため、不夜城のようになっていて、アズサが泊まり込むときも、他の社員からは「あ、今日泊り?」と聞かれる程度のことであった。

 

 一昨日の初対面の挨拶の時は、文芸・学術部長がアヤミを迎えに行ったが、昨日も部長がアヤミを迎えに行ったので、アヤミはほぼ定刻に会社に現れた。そして今日からは、アズサが一人でアヤミと同行する必要がある。アズサはアヤミの泊まっているホテルに今日以降、毎朝アヤミを迎えに行くことにした。アヤミが大の遅刻魔だと分かったので、アズサは、アヤミをホテルに迎えに行く時刻の一時間前に、アヤミに電話を入れる。朝十時に集合であれば、九時に電話を入れる。

 

 「もしもし、アヤミさん。あと一時間で、ホテルの下のロビー集合でお願いしますね」

 

 アズサが電話をかけると、アヤミは明らかにベッドの中からと分かるような声で、

 

 「あ、…はい。…行きます。よろしうね」


というような心もとない返事が返ってくる。

 

 アズサは、この日以降、毎日、十時前にホテルのロビー行くのだが、時間通りアヤミが現れることは一度もなかった。よくて三十分、ひどいときは一時間近く経ってから、アヤミがおもむろにロビーに現れる。

 

 「ごめん。かんにん」

 

 いつもアヤミは、本当に申し訳なさそうに、しかし、気心の知れた友人に言うように詫びる。アズサもアヤミのことを、ほとんど、同い年の友達のように感じていたとはいえ、仕事上の執筆者との認識も忘れていなかったので、それほど気にならない。むしろ、普通の友達なら、一時間の遅刻を何回もしたら怒るのかもしれないが、アヤミは仕事上の「作家」であり、業務遂行が第一目的とするなら、そのための差支えは、アズサが多少なりとも容認するのはやむを得ないと考えていた。

 というより、なぜか、いつも遅刻してくるアヤミを見ても、アズサにはなんだか怒る気が全くしない。ハンバーガーを百個、超難関大学卒、文学賞受賞、という経歴以前に、アヤミ本人の人柄が、どうしても嫌いになれなかった。

 

 一時間遅刻するのであれば、アズサの待機時刻をもう少し遅くしてもよさそうだが、もしアヤミが集合時間ぴったりに現れたりしたら、今度はアズサのほうが遅刻になってしまう。なので、アズサはやはり毎回集合時間少し前にホテルのロビーへ行き、数十分はアヤミが来るのを待っていた。

 今時の編集者だから、出先で仕事ができるように、自分のノートパソコンは常に持ち歩いている。アヤミを待っている時間は、ホテルのロビーで他の仕事をしていればよかったので、「実害」は発生しない。とはいえ、今回のアヤミの滞在期間中に、アヤミが集合時間通りに現れたことは一度もなかった。

 

 この日、三十分ほど遅れてロビーに降りてきたアヤミを見て、アズサはほっとしようとしたのだが、アヤミの服装を見て驚いた。今日のアヤミは薄緑色の作業服を着ている。足元も、昨日のパンプスとは違って、スニーカーになっている。

 

 「作業服ですか?」

 

 「うん、これ、大学の時に使こうてたやつやねん。作業する時は便利やで」

 

 確かに、理工系なら作業着も持っているかもしれない。アヤミの作業着は、数年着たのだろう、それなりにくたびれていた。

 

 「アズサちゃん、ウチの足、踏んでみ?」

 

 「え?」

 

 「これただのスニーカーちゃうん。安全靴や」

 

 「安全靴て?」

 

 「つま先に鉄板が入っとって、車にひかれても平気なんよ」

 

 アズサは、そんな靴があることは知らなかった。ちょっと遠慮しながら自分のパンプスでアヤミのスニーカーのつま先を踏んでみる。アズサがさらに足に力を入れてみたので、アズサはアヤミのつま先の上に乗ってしまった。

 

 「アハハ、全然平気」

 

 「へえ、こんな靴あるんですね」

 

 「うん、ロボットとか重いもの扱う研究室やと、これ必需品やねん。つま先つぶしたらたいへんやん」

 

 アヤミは結構怖いことをニコニコしながら話す。すると、アズサがアヤミの作業服の胸の刺繍に気付く。

 

 「日本語なんですね」

 

 胸には、「京都卓越科学大学」と刺繍されている。

 

 「そうなんよ。学部長さんがちょっと変わった人で、英語の刺繍より、漢字で大学名を世界に知らしめる、とか言わはって、なんや胸の刺繍が漢字になったとか言うてたわ。かなんな」

 

 自分など想像もつかないほど、普通人からは外れたように感じるアヤミに「変わった人」と言われる人物が存在すると思うと、アズサはちょっと面白く感じた。誰しも「自分は普通人」と思っているのだろうか。アズサは、以前から自分自身はちょっと変わっていると思うこともあったので、かえって「自分を変わっていると思う自分は、やっぱり変わっているのだろうか?」と、堂々巡りのような疑問が湧きかけたが、答えはここでは出そうにもないので、気持ちをアヤミとの仕事に戻した。

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