グラタンへ

パ・ラー・アブラハティ

ぐら

 野生のグラタンは吠えた。


 それは雨が降る夜の事だった。


「ぐらー」


 猿飛は目を疑った。道端に打ち捨てられていたのは、茶色の皿に盛られた何の変哲もないグラタンだった。


 猿飛は足を止めて「ぐらー」と力無く吠えるグラタンに近付いてみる。


「……夢でも見てるのか」


 グラタンを手に取ってみると仄かに暖かい。雨に濡れて冷めてしまったのだろうか。ホワイトソースの香りは鼻をくすぐって、空腹を煽る。


「夢じゃないみたいだな」


 感触、匂い、視覚、伝わる五感が夢では無いと教えてくれる。猿飛はしばしの思考の末、面白半分でグラタンを家に持って帰ることにした。


 家に着くと猿飛は靴箱の上にグラタンを置いて、洗面所からタオルを持ってくる。濡れた皿を丁寧に水を拭う。


「ぐらー! ぐらー!」


 拭かれたグラタンは元気になって、無邪気に声を発する。猿飛の顔から思わず笑みがこぼれる。


「しかし、お前一体なんなんだ?」


 一息ついた猿飛は目の前にいる不思議なグラタンを見つめる。見た目は本当に変哲もないお店で出てきそうなグラタンなのだけど、声を発していて珍妙と表す以外になんというのが適切か分からない。


 じーっと見つめられたグラタンは「ぐ、ぐらぁ……」と恥ずかしげな声を出す。


「本当になんだこれ」


 感情を人間のように引き出しから取り出してくるグラタンに、猿飛が困惑の色を持つのは至極当然であった。


「ぐらー」


「そういえば、お前名前あるのか?」


「ぐらー?」


「あるわけないか。グラタンって呼ぶのもあれだし。そうだな、うーん」


 猿飛は思考する。目の前のグラタンに合う名前を。そして、安直に鳴き声から「ぐら」と名付けた。


「ぐらっぐらっ!」


 猿飛は拾ってきた野生のグラタンにぐらと名前を付ける。ぐらは名前が気に入ったのか嬉しそうに声を上げる。


 猿飛は徐々に愛着が湧いてきていた。最初こそは珍妙で不思議で訳の分からん喋るグラタンだと思っていたが、名前を付けて喜ぶ様子を見ると小さな子供を見ている気になっていた。


「嬉しいか? お前は変な奴だな。まあ、お前を拾って名前を付けてる奴が言えたことじゃねえけどな」


 この日からぐらと猿飛の共同生活は始まった。


 猿飛はぐらをリビングに野ざらしに置いておくのもあれだと思い、家造りを始めた。


 家造りといっても、そんな大層なものは作れないので、段ボールでチャチャッと作った簡易的なやつがぐらの家となった。


 見た目は貧相で猿飛はぐらに申し訳ないと思っていたが、当の本人であるぐらは「ぐらっ! ぐらっ!」と喜んでいた。


「本当にそんなのでいいのか。ちゃんとしたやつ買ってもいいんだぞ」


「ぐらっ!」


 猿飛が段ボールの家以外を提案すると、ぐらはこれがいいと言わんばかりに声を鳴らした。


「まあ、お前がそれでいいって言うならいいけどさ」


「ぐらー」


「変な奴」


 次の日、猿飛はぐらの食事に悩んでいた。そもそも、喋るグラタンがご飯を食べるのかどうかすら怪しいところではあった。


 頭を回転させても、ネットの海を探ってもグラタンの飼い方などヒットするはずもない。


 猿飛はぐらに直接尋ねた。


「ぐら、お前は飯を食うのか?」


「ぐら? ぐらー、ぐらら」


「その返事はいらないってこと?」


「ぐらっ!」


 猿飛は「ぐら」としか言われてないのに、何となくで会話をしていた。二人の間には確かな絆が芽生え始めていた。


 全てが初めての猿飛はぐらの生態をメモすることにした。何かあった時にすぐ対処ができるようにと。犬と初めて飼う飼い主のように、ぐらが肯定したこと、否定したことを全て書いた。


 そして、猿飛とぐらが一緒に住み始めてひと月が経ち始めた日。珍しく落ち込んで帰ってきた猿飛にぐらは心配そうに声をかけた。


「ぐら……?」


「あぁ……ぐら、心配しないで。どこか体調が悪いとかではないんだ」


「ぐらー? ぐら?」


「じゃあ、どうして落ち込んでるのかって? ……好きな子を遊びに誘えなかったんだよ、ほんと意気地無しだよ」


 ひと月が経って、猿飛はぐらの言葉を完全に理解していた。語彙は「ぐら」しかないが、ほんの少しの揺らめき、強さ、などで感情を理解していた。


「ぐらーっ! ぐら!」


「落ち込んでないでさっさと誘えって? それが出来たら苦労してねえよ……」


 いつもは前向きで何事も諦めない猿飛を見ていたぐらにとっては、今の猿飛は弱々しくて見るにたえなかった。


 ぐらは猿飛の背中を押そうと言葉をかけ続ける。


「ぐら、ぐらら! ぐらっー!」


「君ならやれるって? はあ……でもなあ」


「ぐらぁー! ぐららー!」


 弱気になって話を進めようとしてない猿飛にぐらは堪忍袋の緒が切れてしまった。茶色の皿が、じわじわと熱を帯び始めて、猿飛の肌を焼く。


「あっち! あっちぃ! もしかして、怒ってんのか!?」


 突然の熱に猿飛は慌てふためく。


「ぐらーっ!」


「わかった! わかったよ! 連絡するから、熱をおさめてくれ!」


「ぐらー」


「た、助かった……」


 ぐらは連絡をするという言葉に怒りを鞘に収めてくれる。猿飛の肌を焼いていた熱も徐々に落ちてゆく。


 そして、猿飛はズボンのポケットに閉まっていたスマホを取りだす。好きな人の連絡先をタップする。


 震える指は緊張を明確に表していた。視界が揺れて、空気が薄くもないのに息が荒くなっていく。


「ぐらー?」


「わ、わかってるよ。そう、急かさないでよ」


 ぐらは猿飛の緊張など知ったことかと言わんばかりに急かす。


 猿飛の頭の中はどう誘うかでいっぱいになっていた。気持ち悪くなくて、少しも引かれないいい誘い文句を考えていると、スマホを取りだしてから数分が経ち始めていた。


「あぁー! わからん! わからない!」


「ぐらぁ……」


「そう、呆れるなよ! 仕方ないだろ、誘ったことねえんだよ、今の一度も! 悪かったね、好きな人を遊びに誘うことすら出来ない意気地無しで!」


「ぐら! ぐらら!」


「あんだって!?」


 猿飛とぐらが言い合いをしていると、ピロンとスマホが鳴る。スマホを見ると、好きな人から「今週の土曜日、遊びませんか?」というメッセージが送られてきていた。


 それを見た猿飛の目は飛び出る。


「うわ、うわぁぁぁ! ぐら、今週の土曜日遊びませんかってきた!」


「ぐら!?」


「ど、どうしよう! と、とりあえず返信するべきだよな!」


「ぐ、ぐら!」


 猿飛は間髪を入れずに「はい」と淡白に返す。そして、またピロンとメッセージが届く。


「じゃあ、今週の土曜日楽しみにしてます。だって! やばい、やばいよ! 服決めないと!」


 猿飛はバタバタと慌ただしくタンスを開けて、まだ先の土曜日の服装を決め始める。ぐらはそれを見て呆れたように「ぐら……」と鳴いた。


 そうして月日が経ち、やってきた土曜日の日。猿飛は約束の時間の一時間以上前に起きて、身支度をすませていた。ソワソワと落ち着かない様子でぐらは「ぐらー、ぐら」と声をかける。


「わかってるよ、慌てても何しても時間は進まないってことは。でも、やっぱり緊張しちゃうよ、今日の格好おかしくない? 大丈夫?」


 ストリート系のスカジャンとジーパンに身を包んだ猿飛が不安そうにぐらに聞く。


「ぐら、ぐら」


 ぐらは大丈夫だよ、と言う。


「そう? 良かった、あ、もう行かなきゃ! ぐら、行ってくるね!」


 猿飛は家の鍵を持って、青が澄渡る太陽の元へ駆けて行った。ぐらは背中を静かに見送った。


 家に残ったぐらはこの時間が苦手だった。誰もいない、しんと静まった部屋は道端に捨てられていた日のことを思い出して心が苦しくなってしまう。


 そして、ぐらは薄々とこの家を出なければならないと感じていた。自分がいつまでもこの家に居座っていると、きっと猿飛は幸せになれない。


 別にそう言われた訳でもないが、ぐらは感じていた、自分という存在の異質さに。


 だから、もし猿飛が幸せを見つけたのならそれを壊すことはしたくない。助けてもらった恩を仇で返すような行為はしたくないと。


 この家に残りたい、猿飛といたい。けど、自分は居てはならない。相反する感情は苦しさだけを味わせて、心のちっぽけさを痛感させた。


 夕陽が落ちて、空の色が三色になった時に猿飛は帰ってきた。やけに嬉しそうに、今にも頬が落ちてしまいそうな程に顔がにやけてとろけていた。


 きっと、何かいいことがあったのだなとぐらは分かった。


「ぐら?」


「いいことお? ふふーん、あったよ。なんだと思う?」


「ぐらー?」


 猿飛の言葉でぐらは全てを察した。でも、わからないふりをした。いや、わかりたくないからわからないふりをした。


 きっと、それを聞いてしまったら自分の居場所が消えてしまうから。


「なんとねえ……好きな人と付き合えることになったんだぁ!」


 ニヤニヤと心底嬉しそうに猿飛は話した。そして、その言葉はぐらの聞きたくない言葉でもあった。


「ぐらー! ぐら! ぐらー!」


 でも、ぐらは祝った。盛大に祝った。溢れ出る感情に蓋をするように、もっと大きな感情で見ないふりをした。


「祝ってくれるのか! でね、明日も一緒にデートしに行くんだぞ! 楽しみだなあ!」


 夢を語る子供のように猿飛は明日の幸せを待ち望む。


「明日に備えて早く寝なきゃ」


 猿飛はまた早く起きて、また楽しそうに出掛けていく。ぐらはその背中を焼き付けて、静かに家を去った。


「ぐらー! ただいま!」


 何も知らない猿飛は元気よく帰ってきた。しかし、いつものように元気に「ぐらー!」と返してくれる声が聞こえないことに不安を覚える。


 電気をつけて、段ボールの家を見るといつもいるはずのぐらの姿はどこにも無かった。


「ぐら!?」


 猿飛は家を飛び出した。居なくなったぐらを探しに。あてなんかなかった。手当たり次第に近所を走り回った。


「ぐらー!」と大きな声で叫びながら、あの茶色の皿を探した。空は徐々に曇天に染まり始めていた。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める。濡れる視界に薄らと蘇るあの日の光景。猿飛は荒くなってゆく息を無視して、あの日の場所へ急いだ。


 暗がりの中に、見つけたぐらの姿。


「ぐら! 良かった! 探したぞ!」


 ぐらは猿飛の声に泣きそうになる。同時に未練が強く動く。


「どうしたんだよ、ぐら。なんで急に出て行ったんだよ」


「ぐら……ぐら」


 ぐらは出ていった経緯を話した。自分がいたら幸せになれないと。


「馬鹿なこと言うなよ。お前がいるから幸せになれない? そんなわけないだろ」


 猿飛は言葉を真っ向から打ち砕こうとする。


「ぐらー! ぐら! ぐらー!」


 ぐらは猿飛に「自分の人生を生きて! 私は野生のグラタンに戻る!」と叫ぶ。強く固めた決意が壊れてしまわないように、強く強く言葉を拒否する。


 でも、猿飛はそれを受け入れようとしなかった。「嫌だ!」と叫び、ぐらを無理矢理にでも連れて帰ろうとする。拒むように熱を帯びて触れなくする。


「……どうして、今まで楽しかったじゃないか」


「ぐら……ぐらら」


「楽しかったからこそ壊しくたくない? 違う、ぐらがいたから楽しかったんだ! それはこれからもずっと変わらないよ!」


 ぐらはずっと嬉しかった。猿飛が言ってくれる言葉一つ一つが心を軽くして、優しく包んでくれた。だからこそ、荷物にはなりたくなかった。


 ぐらは最後に「ありがとう、これからも元気に生きてね!」と言い残し、猿飛の元を去った。


「ぐらー! ぐらー!」


 猿飛はぐらの揺るがない決意を汲んで追求も何もしなかった。二人の轍はここで別れてしまった。


「ぐらー! ありがとう! 私、私ね! ずっと楽しかったよー! 強く、元気に生きて! 困ったらうちに来るんだよー!」


「ぐらーっ!」


 愛を貰ったぐらは吠えた。


 それは雨の降る日の事だった。

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