月の光はレモンの香り

猫柳蝉丸

本編

 不意に目を覚ました。

 疲れていたはずなのに何故だろうと室内を見回してみる。

 気付いたのはカーテンの隙間から漏れる月光。

 どうやら締め切っていなかった隙間からの月光が僕の目元に当たっていたらしい。

 小さく嘆息してカーテンを閉めようと窓に近付いたけれど、不意に思い付いて少しだけ開いて覗き見てみる。

 眩しいわけだ。

 スーパームーンというほどではないけれど、普段よりかなり大きな満月が中空に浮かんでいた。

 冬の空気のせいもあるのだろうか、その光は奇妙に思えるほど眩しく輝いている。

 と。

 何故だろう。僕は鼻腔に甘いような酸っぱいような香りを感じていた。

 これは懐かしく何度も嗅いだ香り……、そうレモンの香りだ。

 色聴……、共感覚ではない。僕にはそんな能力は備わってはいない。

 つまり僕はただ過去に何度も嗅いだ香りを、月の光を浴びて思い出しているだけということだ。

 でも、何処で?

 すぐに思い出せたと同時に、胸が締め付けられるような感覚を覚える。

 この感覚は、そう、切なさだ。僕はレモンの香りを思い出しながら切なさを感じてしまっているのだ。


 僕には仲の良かった幼なじみがいた。一つ年下の女の子で、小さい頃から何処へ行くにも一緒だった。

 大人しく、お菓子作りが好きで、優しくはにかむのが印象的な女の子だった。

 高校生になっても僕たちは一緒にいて、このまま二人で生きていくのも悪くないと思えた頃、僕たちにとっては一大事件が起こった。

 それからずっと離れることはないと思っていた僕たちは疎遠になり、毎日していたはずの連絡も減る一方になった。

 今となっては思い出すことも少なくなってしまった大切な幼なじみ。

 そう、あの子は僕の受験勉強の際の夜食に、よくレモンの風味のお菓子を作ってくれていた。

 あの子は……、今頃この同じ月の光の下で何をしているのだろう?

 どうしよう、どうにも泣いてしまいそ


「何を窓際で黄昏てんのよっ」


 いきなり後ろからかなりの力で叩かれた。相当な痛さに別の意味で泣いてしまいそうだ。

 非難の目を後ろに向けると、ベッドで眠っていたはずの志保が楽しそうに笑っていた。


「いきなり人の頭を叩くんじゃないよ志保」


「あんたが妙な顔して月なんて見上げてるからじゃないの。こりゃ叩いとかないと」


「どういう理屈なんだ……」


 呆れて非難してみせるけれど、志保の笑顔は変わらず楽しそうで、まあいいかと思えてしまうから不思議だった。

 僕は苦笑してから軽く続ける。


「月の光が眩しくてさ、ちょっと見上げてただけなんだよ」


「あんたが? 似合わないことすんのねえ」


「ほっといてくれ。志保こそあれだけ熟睡してたくせにどうして目が覚めてるんだよ」


「隣にあんたが寝てないとそりゃ気付くわよ。最近寒いからね、あったかいのがいなくなると困るわけ」


「さいでっか。じゃあ朝も早いしまた寝とこうか」


「そうだね……」


「どうしたんだい志保?」


「何か急にレモンのお菓子が食べたくなった」


「……奇遇だな、僕もだよ」


 驚くには値しないのかもしれない。

 そもそも志保はあの子に友達として紹介されたんだから。

 志保はあの子とタイプが違い過ぎて不安だったし、しばらくは慣れなかったけれど、話している内に気が付けば目で追うようになっていた。

 いつの間にか二人で遊びに行くようにもなり、僕の中で志保の存在がどうしようもなく大きくなっていて、最終的には僕の方から告白していた。それで付き合うようになって今に至るというわけだ。

 あの子のことが気にならなかったわけじゃない。僕の自意識過剰かもしれないけれど、あの子の中でも僕のことはそれなりの存在にはなっていたはずだ。それでも僕は僕の気持ちに嘘はつけなかった。

 あの子は祝福してくれた。僕も嬉しかった。でも、絶えず不安は感じていた。これでよかったんだろうか。僕はあの子を傷付けてしまったんじゃないだろうか。そう思ってしまっていつの間にか疎遠になった。これが僕たちにとっての大事件だ。

 今でもあの子を思い出すと、月の光とレモンの香りを思い出すと、胸が締め付けられるような感覚に陥る。

 けれど……。


「明日、あの子に連絡してみる?」


 志保は僕が惹かれたあの笑顔で笑ってくれるのだ。


「何だよいきなり」


「また食べたいでしょ? あの子のお菓子」


「そりゃ食べたくはあるけど、最近連絡取ってなくて迷惑だろうし」


「バカねえ、最近連絡を取ってなかったからこそ連絡しとかなきゃ。もし本当に迷惑だったらその時に謝ればいいだけよ」


「そういうもんかな……」


「そういうもんなの」


 志保が笑って、僕も笑う。

 そうだな、そういうもんなのかもしれない。

 そういえば、匂いというものは他の感覚より深く記憶に刻み込まれるという話をどこかで聞いたことがある。

 深く深く刻み込まれているのだ、あの子の記憶は。僕の中にも、志保の中にも。

 だったら思い出してしまった以上、僕たちはあの子のことを更に深く思い出すべきなんだろう。

 後悔はない。悲しむことなんてない。切なくなることはあるけれど、僕は志保と二人で幸せになってみせると決めたのだ。

 月の光はレモンの香り。僕たちにとってはそれ以上でもそれ以下でもないということなんだ。

 これ以上あの子のことで思い悩んでいても、それはあの子にも志保にも失礼なことでしかない。


「大丈夫よ」


 根拠があるのか無いのか、志保がいつもよりも目を細めて笑った。


「あの子、メチャクチャ可愛いもん。あんたごときより素敵なお相手と楽しくやってるわよ」


「ごときって何だよ、ごときって。まあ否定はできないけど」


「いいじゃないの、あんたごときでも一緒にいて楽しいって思ってるあたしがいるんだからさ」


「惚気なのか? それ惚気なのか?」


「えっへへー、どうかしらね」


 言い終わって、志保が僕の頬に軽く唇を寄せてくれた。

 また、レモンの香りを感じる。

 今度はあの子の作ったレモン風味のお菓子の香りじゃない。

 それは、志保が初めてのデートで作ってくれた、形がボロボロのレモンのお菓子の香りだった。

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