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にゃあ、にゃあ、という鳴き声と、なにかが頬をつつく感触がして、僕は目を覚ました。目を開けると、黒猫ロボットが前足で僕の頬をつつきながら鳴いている。真っ青な瞳に寝起きの僕のぼんやりした顔が映っている。目覚まし時計代わりにもできるとおばあちゃんから聞いていたので、昨日の夜のうちにアラーム機能をセットしてみたのだけど。まさかこんな風に本物の猫みたいに起こされるとは思わなかった。おばあちゃんがカスタマイズしたのだろうか。なんだかすごいこだわりだ。

そんな風にぼんやりとおばあちゃんの猫好きぶりに思いをめぐらせているうちに、頭に装着していたEmo-AIが小さく震えて起動する。今日からいよいよコンテストの制作作業に入るのだ。朝起きてすぐに、一刻も早く作業に取り掛かりたい気持ちで心が満たされるよう、こちらも昨日のうちにEmo-AIに指示プロンプトを入れておいたのだけど。でもこっちは、今日もまた、うまくいかなかった。湧き起こると思っていたやる気はもやもやと曖昧に、かたちにならないまま消えてゆく。昨日見た《ルナ・ジルコニア》のカグヤヒメ像は本当にきれいだった。ああいうものを見たのだから、少しはやる気が起こるかなと思っていたのだけど、僕の中にはそれすらも無いらしかった。


大きくため息をついて、僕は備え付けの洗顔用ウォータージェルで顔を洗う。いろんな手段で水資源を確保できるようになったとはいえ、月面では水はまだまだ貴重だ。節水のためにいろんな道具が開発されたり改良されたりして、このジェルもそのひとつだ。ジェルを顔に塗りたくって、しばらくして少し固まったところで、ぺりぺりと顔から剥がす。顔に残ったジェルをタオルで拭きとると、これがけっこうさっぱりする。このジェルは地球でも使われていて、おじいちゃんのお気に入りだった。水で洗うよりさっぱりするのだと喜んで使っていた。固まったジェルを剥がすとき、ジェルがおじいちゃんの顔のしわとおんなじ形に固まっているのがおもしろくて、小さかった僕はよく代わりに剥がさせてもらっていた。僕がぺりぺりとジェルを剥がし終わると、ありがとう、さっぱりしたよ、とにこにこ笑っていたおじいちゃんの顔を今も覚えている。僕はたった今自分で剥がしたジェルを見る。しわひとつなくのっぺりとしている。僕はそれを丸めてごみ箱に捨てた。おじいちゃんは僕が12歳の時に亡くなった。


玄関ドアを開けると、ドア前の宅配ボックスには朝ごはんがもう運ばれていた。昨日のうちにタブレット端末から注文しておいたのだけど、うまくいったみたいだった。僕は宅配ボックスの中に入っていたお弁当箱を中に運んで、テーブルの上に置く。ふたを開けると、こまかく仕切られた箱の中にいろんなおかずが並んでいた。ほかほかの白いごはんと、新鮮そうなカットフルーツもついている。何番ドームかは忘れたけど、こういう野菜や果物を育てている大きな農場エリアがあるらしい。肥料はレゴリスから精製したもので、これを使うと地球とはまた違う味わいのものに育つと聞いたことがあった。


並んだおかずを眺めていると、玉子焼きがあることに僕は気がついた。玉子は、月面で食べられるようになったのは比較的最近だ。30年くらい前だったろうか。ニワトリを月面で飼育するプロジェクトから始まって、合う環境探し、合うエサ探し、生まれた玉子の味を改良する試み、それはそれはいろんな試行錯誤があったらしい。僕が小学生のころに教育チャンネルで、月面で玉子が食べられるようになるまでの苦労の数々を特集した番組が放映されて、それをいっしょに見ていたお父さんがちょっと泣いてたのを覚えている。お父さんは涙をごまかすようにして、「いつか月の玉子を食べてみたいなあ。やっぱり地球のとは味が違うのかなあ」と、僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。僕はお弁当箱の玉子焼きを口に運ぶ。味付けが濃くて、玉子自体の味まではよくわからなかった。お父さんは僕が10歳の時に亡くなった。月に行くことはないままだった。


(なんだか、昔のことをよく思い出すなあ)


そういえば、おばあちゃんが「年をとって話し相手がいなくなると、昔のことばっかり思い出すんだよ」なんて言ってたろうか。僕もひとりでご飯を食べることはよくあったけど、ここまで何もかもひとりぼっちの環境に身を置いたことはなかったかもしれない。年を取らなくても、ひとりになると昔のことを思い出すものなのかもしれなかった。


朝食を食べ終わって一息ついていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアホンのモニターに、昨日と同じ案内ロボが映っている。銀色の瞳を光らせて、「おはようございます。素材をお持ちいたしました」と言った。僕は玄関ドアを開けて、案内ロボを中に入れた。案内ロボは小さなダンボール箱を抱えていた。


「おはようございます。昨夜はよくおやすみになられましたか?」

「あ、はい。おかげさまで…」

「それは良かったです。休息はとても大事ですから、しっかりとお取りになってくださいね。では、さっそく素材をお渡ししますね」


案内ロボは作業用の机まで移動し、机の上にダンボール箱を置く。フタを開くと、中にはいくつかの銀色の塊と、赤色と銀色の2種類のハンディライトが入っていた。ロボットとは思えないなめらかな手つきで詰められていた緩衝材をより分けて、案内ロボは箱の中から銀の塊のひとつを取り出す。


「こちらが生の状態の《ルナ・ジルコニア》です。こちらは当社の工場にて、精製したままの形となっています」


キューブ状の銀色の塊を手に、案内ロボが言う。精製したままの形ということは、研磨もされていないということだろう。キューブ状の《ルナ・ジルコニア》は案内ロボの瞳に使われているものとは違って、なんとなくごつごつしたような風合いだ。形こそきれいな立方体だけど、採掘したばかりの鉱石みたいな雰囲気があった。


「そしてこちらが、研磨した状態のもの、ボール状に変形させたもの、プレート状に変形させたもの、宝石のようにカッティングしたものとなります。イメージを膨らますことができるよう、いくつか違う状態の素材をご用意させていただきました」


またしてもなめらかな手つきで次々と箱から《ルナ・ジルコニア》の素材を取り出しながら、案内ロボが説明する。その素早い手の動きに反応したのだろう、いつの間にか作業机に座っていた黒猫が、案内ロボの指先を目で追うようにして、本物の猫みたいに首を左右に振っていた。


「そして、こちらがそれぞれ太陽光と月光を模した光を出せるハンディライトとなります。赤が太陽光、銀が月光です。昨日玄関でご覧になったオブジェに照射したものと同じで、《ルナ・ジルコニア》に光を当てれば色や光り方が変わります。本物の太陽光や月光ほどの輝きは出ませんが、イメージを膨らませたい時に適宜お使いください」


最後に2種類のハンディライトを手に取って、案内ロボが言う。「どうぞ、お試しください」とライトを渡されたので、キューブ状の《ルナ・ジルコニア》に向かって片方ずつスイッチを入れる。赤い方の光を当てると《ルナ・ジルコニア》は透明になり、銀の方の光を当てると七色に発光した。あのカグヤヒメ像ほどではないけれど、昨日目にした輝きを思い出して、僕は少し心が弾んだ。


「ご提出いただくアイディアについては、文章でも絵でもどんな形でも構いません。紙媒体をお使いいただいてもいいですし、作業机の上のパソコンを使っていただいても大丈夫です。立体で表現したい場合は、紙粘土などもお使いいただけます。最終日に20分ほどプレゼンテーションの時間を設けますので、口頭で細かな説明を行いたい場合はその際になさっていただければと思います」


プレゼンテーション、と聞いて反射的にびくっとする。僕は人前で話すのがとても苦手だ。その気配を感じたのか、案内ロボが安心させるような口調で「緊張なさらなくても大丈夫ですよ。学校の試験ではありませんから」などと言ってきたので、僕はいっそう恐縮してしまった。


「なお、昨日もご説明いたしましたが、アイディアについてほかのどなたかと相談することは禁止しております。コンテストのほかの参加者はもちろん、ご家族ともお話ししてはいけません。ほかの参加者の方とは、もしかしたら食堂などで顔を合わせることもあるかもしれませんが、会話などはなさいませんようご注意ください。タブレット端末からアクセスできるコンテンツに関しましては、自由に参考にしていただいて結構です。また、玄関ホールの近くには当社製品の展示室もございますので、よろしければご参考になさってください」


一息つくようにして間を空けて、案内ロボは続ける。


「最後に改めて、《ルナ・ジルコニア》はこの部屋から持ち出すことは禁止しております。規則を破れば即時に失格となりますので、制作作業は必ずこの部屋で行ってくださいね。何かご質問はございますか?」


いいえ、と僕が首を振ると、案内ロボットは一礼する仕草をして、「承知いたしました。では、わたくしはいったんこれで失礼します。わたくしは常にこのフロアに控えておりますので、何かわからないことがございましたらいつでもそちらのタブレット端末からお呼びくださいね」と、昨日と同じことを言って部屋を出て行った。


案内ロボが去ってから、僕は大きく息を吐いた。ただのロボットのはずなのに、どうにも少し緊張してしまう。それに、コンテストの最後にプレゼンテーションがあることも知らなかった。いや、担任の先生からいろんな資料を渡されてはいたから、どこかには説明が書いてあったのかもしれないけれど。僕にとっては寝耳に水だった。


「試験じゃないから大丈夫ですよ、って言われてもなあ…」


Emo-AIがうまく使えればなあ、とこういう時いつも思う。学校でも、授業でほんのちょっとした意見をみんなで言い合う時でさえ、僕は緊張してうまく言葉が出せない時があった。ほかのクラスメイトがみんな堂々と、時には楽しそうにいろんなことを言い合っているのがうらやましかった。学校には週に何日か専門のカウンセラーも来ているから、本当はそういう人に相談すればよかったのかもしれないけれど。今のままでも特にトラブルはなかったし、それなりにうまくやれてる気もしていたので、なんとなく足を運ぶ気にはなれなかった。


「にゃあにゃあ、にゃあ」


どこか楽しそうに黒猫が鳴く声が聞こえて、僕はハッとする。作業机の上で黒猫が、ボール状の《ルナ・ジルコニア》をころころと転がして遊んでいる。傷なんてつけたら大変だ。僕はあわてて黒猫から銀のボールを取り上げた。


「だめ、だめだよ。これは遊び道具じゃないよ」

「にゃー」


黒猫が僕を見つめて、どこか残念そうな声で鳴く。僕はボール状の《ルナ・ジルコニア》を回して、傷がないか確認する。幸いなことにボールの表面は傷ひとつなく、僕はほっとため息をついた。

そのまま僕は作業机の椅子に腰を下ろし、しばらく手の中で銀色のボールを転がしてみた。ボールは手のひらにちょうど収まるくらいの大きさで、サイズの割には重さがあり、ひんやりと冷たい。そして、とても硬い手触りだ。考えてみればそうだ。確か《ルナ・ジルコニア》は、ダイヤモンドに匹敵する硬さを持つ金属なのだ。つい反射的に取り上げてしまったけれど、実際は猫が軽く転がしたぐらいで傷がつくようなものじゃない。僕はちょっと罪悪感を覚えて、こちらを見つめたままの黒猫に、銀のボールを返してやる。にゃあ、と猫は鳴いて、ふたたびボールを前足でころころと転がし始めた。


(楽しそうだなあ…)


黒猫ロボットはボールを転がしながら、ちょこちょこと作業机の上を歩きまわる。地球で見た、夢中でボール遊びをする猫そのものだ。こういう動き回る動物を描くのは、姉さんが好きだった。姉さんは僕よりも9つ年上だった。暇さえあればスケッチブックを広げて、いつも夢中で何かを描いていた。あんまりたくさん話したことはなかったけど、ある時「そんなにいつもなにか描いてて疲れないの」というようなことを聞いたら、「なんか描いてない時間の方が疲れる」とぶっきらぼうに答えたことがあった。本当に夢中になった時は、ごはんを食べたり寝たりする時間も惜しいみたいで、「あー、食べなくてもいい体になりたい。そろそろ不老不死になる技術とか実現しても良くない? 人類」なんてぶつぶつ言いながらごはんを食べていたのを覚えている。姉さんは僕が9歳の時にいなくなった。高校を卒業してすぐに家を出て、そのあと連絡が取れなくなった。今どこにいるのかはわからない。お父さんが亡くなったこともおじいちゃんが亡くなったことも、たぶんまだ知らないままだろう。


僕はぼんやりと昔のことを思い出しながら、黒猫が遊んでいる姿を眺めていたけど。このままぼんやりしていても仕方ないなと思って、部屋に用意されていたスケッチブックを開いてみた。子どものころは姉さんの真似をして、よく絵を描いていたのだ。今のところアイディアなんてひとつも思いつかないけど、とりあえず手を動かしてみた方がいい気がした。僕は黒猫がボールで遊ぶ姿を、鉛筆でデッサンし始める。ボールを転がす姿。追いかける姿。鼻先を近づける仕草。スケッチブックの空白がどんどん埋まっていく。


(単純に、ペット用のおもちゃに《ルナ・ジルコニア》を使うなんてどうだろう?)


描きながら、そんなことを考えたけど、でも、さすがにそれはアイディアとして雑すぎる気がした。たまたま黒猫ロボットが気に入ってこんな風に遊んでるけど、本物の動物におもちゃとして与えるには高価すぎる。それに重いし、硬いし、万が一間違って呑みこんだら大変なことになるだろう。


(じゃあ、呑みこむ心配のないものならいいかな? 大きなもの、おもちゃ、遊具? 公園のブランコとか?)


思いついて試しに描いてみる。ひとりで乗るブランコ。何人かで乗れるブランコ。日中にダイヤみたいに透明になるブランコ? いや、そんなので遊んだらかえって危ないんじゃないか? 公園じゃない方がいい? 観光地のフォトスポットとか? そんな風にぼんやりあれこれと思いついては、それをひたすら描いていった。


スケッチブックの何ページ目かが埋まった頃、急に大きな音が部屋に響いて僕はびくっとした。鉛筆を動かす手が止まる。机の上の黒猫は、とっくにボール遊びをやめてこちらを見ている。青い瞳と目が合って、しばらく固まったままでいると、ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った。ああ、さっきの音はこれだったのだ。僕はあわててドアホンのモニターを確認する。そこにはいつもの案内ロボが立っていた。


「突然失礼いたします。作業中でしたら申し訳ございません。昼食のお時間がだいぶ過ぎているのに何も注文された形跡がございませんでしたので、念のためご確認に参りました」


えっ、と僕は時計を見る。確かに、お昼ごはんを食べる時間はもうとっくに過ぎている。下手をすればもう夕ごはんを食べてもいいような時間だ。


「あ、すみません、作業に夢中で…」

「謝罪される必要はございません。作業に夢中になって食事を取り忘れてしまうことは、コンテストの参加者はもちろん当社の社員でも珍しいことではございませんので。おなかは空いてらっしゃいませんか? 休息はとても大事なことです。なにか召し上がられるのでしたら、わたくしがご注文をお受けしますよ。それとも、社員食堂に行かれますか?」

「あ、ええと……」


社員食堂も一度は行ってみたいと思っていたけど、今はあんまり人のいるところに行きたい気持ちじゃなかった。僕は部屋まで食事を運んでもらえるようお願いした。メニューはおまかせしてもいいかと尋ねたら、「もちろん、喜んで。なるべくおなかに負担のないものを選んでお持ちしますね」と言って、モニターの向こうで一礼して去って行った。


(…けっこう、夢中になっちゃったな)


僕はふかふかのソファに倒れ込んで、ふーっと大きく息を吐く。急に疲れがどっと出てくるような感覚があった。不意に、姉さんと一緒に絵を描いていたころを思い出す。夕ごはんの時間だと声をかけられて、『ああーーーもお~~~~~』と苛立たしげに姉さんが声を上げていた情景が浮かぶ。地球の、木でできた、片田舎の、小さな家。


『いい加減にしなさい! 食べなきゃ生きていけないでしょう!』


そう言って姉さんを叱ったのは、誰だったろうか。

ピリッと頭に軽く電流のような刺激が走って、僕は眉をしかめる。刺激はすぐにおさまった。でも、どこか頭の一部にもやがかかったような感覚が残る。それはEmo-AIがうまく機能しなかったときの感覚に、少し似ている気がした。



しばらくして、案内ロボが食事を運んできてくれた。食堂で作ってもらったばかりのものなのかもしれない。ベージュ色のトレイの上に雑炊や、温野菜のサラダや、やわらかくて食べやすそうな料理がいろいろ乗っていて、どれもほかほかと湯気が立っていた。僕がお礼を言ってトレイを受け取ると、案内ロボはどこか満足げに一礼して去って行った。


「食べなきゃ、生きていけないでしょう…」


僕は記憶の中の言葉を声に出す。受け取ったトレイをテーブルの上に置いて、ソファに腰かける。そうして、雑炊をひとさじ掬って、口に運んだ。薄い薄い塩の味が、どこか懐かしいような気もした。


そんな僕の隣で、黒猫はにゃあとも鳴かず、体をくっつけて丸まっていた。


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