君の名前を忘れた日

坂倉蘭

本文

アキラとユキは大学で出会い、3年間付き合っていた。


誰もが羨むカップルだった。


アキラはユキの笑顔に癒され、ユキはアキラの優しさに支えられていた。


卒業後、二人で小さなアパートに引っ越し同棲を始めた。結婚の話も出ていた。


完璧な恋愛、完璧な未来。それが二人の物語のはずだった。


ある朝、アキラはキッチンでコーヒーを淹れながら、ふと違和感を覚えた。


ユキがリビングで朝ドラを見ている。いつもの光景だ。


なのに、何故かユキの名前が頭に浮かばない。


「おい、ユキ、コーヒー飲む?」


ユキは笑顔で「うん、ありがと!」と答えた。


ホッとしたアキラだったが、心の奥に小さな棘が刺さった。


なぜ、一瞬だが彼女の名前を思い出せなかったのか。



その日から、アキラの記憶に奇妙な空白が生まれ始めた。


ユキとのデート中、彼女が「このカフェ、初めて来たよね?」と言った時にアキラは「あれ、ここ来たことある気が…」と呟いた。


ユキは笑って「アキラの記憶は適当すぎでしょ!」とからかったが、アキラの脳裏には、ユキとこのカフェでケーキを食べた鮮明な記憶があった。


だが、ユキはその話を全く覚えていない。


ある夜、アキラはユキのスマホを借りて写真を見ていた。


二人で旅行に行った写真、友達とのパーティーの写真、日常のスナップショット。


だが、どの写真にもユキが写っていない。


ビーチでアキラが一人で笑っているもの、レストランでアキラが一人でグラスを手にしていもの。


アキラは震えながらユキに聞いた。


「これ、なんでお前が写ってないんだ?」


ユキは怪訝な顔で「は? 私が撮ったんだから、写ってないでしょ」と答えた。


だが、アキラの記憶ではユキが隣にいた。


確かにいた。


混乱したアキラは、共通の友人であるタカシに相談した。


「ユキのこと、どう思う?」と聞くと、タカシは目を丸くした。


「ユキ? 誰それ? お前に彼女なんていたっけ?」アキラは凍りついた。


タカシはアキラの恋愛話を一度も聞いたことがないと言う。


ユキとタカシが一緒に笑い合っていた記憶が、アキラの頭には鮮明にあるのに。


家に帰ると、ユキはいつものように夕飯を作っていた。


「ねえ、アキラ、最近変だよ? 大丈夫?」と心配そうに言うユキ。


アキラは叫んだ。


「お前、本当にユキなのか? なんで誰もお前のことを知らないんだ!」


ユキは傷ついた顔で「何それ…ひどいよ」と涙を浮かべた。


だが、アキラの心は疑念で埋め尽くされていた。


ユキは本当に存在するのか?


それとも、自分の頭がおかしいのか?



次の日、アキラはユキの家族に電話をかけた。


ユキの母と名乗る女性が出たが、「ユキ? そんな子、うちにはいないよ」と冷たく言われた。


アキラがユキの特徴を必死に説明すると、電話の向こうで女性がため息をついた。


「あなた、うちの娘の名前をどこで知ったの? ユキは5年前に死にました。からかいなら、ほっといて下さる?」


アキラは電話を切り、放心状態でアパートに戻った。


ユキはソファで本を読んでいた。


「おかえり! 今日、なんか疲れてるね?」と笑うユキ。


アキラは震える声で聞いた。


「お前、誰だ?」


ユキの笑顔が一瞬凍りつき、すぐに柔らかく戻った。


「アキラのことが大好きだから、こうやって一緒にいるんだよ。ね、名前なんてどうでもいいよね?」


その瞬間、アキラは気づいた。


ユキの顔が、どこか曖昧だ。目が少しぼやけ、輪郭が揺れている。


まるで、自分の記憶が作り上げた絵画のようだ。


アキラは叫びながらユキに触れようとしたが、手は空を切った。


ユキはただ笑いながら言った。


「アキラ、私を忘れないでね。だって、私を愛してたのは、あなただけなんだから」



次の朝、アキラは一人でアパートにいた。


ユキの荷物も、写真も、何もかも消えていた。


だが、アキラの心にはユキの笑顔が焼き付いている。


そして、鏡を見ると自分の顔が微妙に変わっている気がした。


まるで、誰かの記憶に作り替えられたように。

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君の名前を忘れた日 坂倉蘭 @kagurazaka-rin

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