第3話
いつもの教室、存在を消しながら自分の机に滑り込む。
カバンを置いて、一時間目の準備をする。
先生が来るまでの時間、僕は小説と言う盾を手に取る。
そんなものが無くても、誰も話しかけてこないのだけれど。
「おはようゆっきー」
僕は、声のする右前を向いた。
振り返りながらピースしてる、腰塚さんだった。
声は出なかった。
少し頭を下げるのが、僕には精いっぱいだった。
僕はこの時、どんな顔をしていたのだろう。
我に返ると、恥ずかしくていつもより深く小さな文庫本に顔をうずめた。
この日は、一文字も読むことが出来なかった。
きっと、人気者の彼女の気まぐれだろうし、それも分かってる。
こんな僕にも、気さくに話しかけてくれる彼女だからこそ、人柄も人をひきつけるのだと思う。
きっと、彼女には何気ない瞬間も、僕はずっと覚えているのだろう。
この感情の意味が分からないけれど、風景に見える教室の中で、彼女は輝いて見える。
自分でも気持ち悪いけれど、その日は彼女だけを見ていた。
この日の放課後、僕は初めて自分の教室を描いていた。
僕の中に、何かを描きたいと言う気持ちがあることにも驚いた。
そんな時だった。
ガラガラガラと、ゆっくり美術室の扉が開いた。
僕が視線を扉に向けると、そこには太陽があった。
「ゆっきー、ほんとに部活やってんだね」
太陽は、木のギターを持って入って来た。
あっけにとられている僕を横目に、彼女は僕の絵を覗き込んだ。
「絵とか分かんないけど、私ゆっきーの絵、好きだよ」
僕は、この時知ったんだ、これが金縛りだって。
僕には歪んで見える世界を、切り裂くような彼女の存在。
何度手を伸ばしても、僕には出来なかった事を、彼女はいとも簡単にやってしまう。
「ねえゆっきー、ここ使っても良い?」
金縛りの僕に、彼女はさらなる眩しい光を投げかけてきた。
僕は、呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃を受けたんだ。
「えっ。大丈夫?やっぱりだめかな」
「大丈夫です。大丈夫です。はい。大丈夫です」
彼女の光が、一瞬霞んでしまった。
僕は、必死に声を絞り出したんだ。
「ありがとう。落ち着いて練習できるとこが欲しかったんだ」
そうか、彼女にとってはそれが目的。
ほとんど誰も来ない、学校の片隅。
そこにいるのは、幽霊の僕だけだ。
その日から、僕だけの美術室では無くなった。
そして、僕にとって、特別な時間が始まった。
僕は、彼女の声と優しいギターの音を聞きながら、絵を描いている。
時折彼女の顔を見ると、僕の目を見て、軽く微笑んでくれる。
でも、その微笑みは、僕の固く閉じた扉を、やさしくそして激しく叩くんだ。
全てが歪んでいれば、何も思うことはないのに。
歪んだ世界に、眩しい太陽はより深い影を落とす。
彼女の美しい音色が響くほど、僕は筆が進まなくなった。
真っ白なキャンパスに、意味もない黒い線をなぞっている。
元々そうだったはずなのに、僕の時間が滑稽に見えてくる。
僕の居場所だったのに、今は僕が異物のようだった。
でも、そんな僕を引き上げてくれたのも、彼女だった。
「ゆっきー、私をさ、描いてくれない?」
僕は絵が好きでも、上手くもない。
そもそも、こだわりもないんだ。
「うん」
でも、僕は彼女の目が好きだ。
彼女を描く時間が、僕は好きになった。
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