ラムネ色の約束
龍月みぃ
ラムネ色の約束
梅雨明けを告げる蝉の声が、アスファルトの熱気とともに教室に流れ込んでくる。窓の外には、どこまでも広がる真っ青な空。もうすぐ、夏休みだ。ざわめきと期待感が入り混じった独特の空気が、一学期最後のホームルームをふわりと包み込んでいる。
私、佐藤葵(さとうあおい)、高校二年生。クラスの中では、どちらかというと目立たない方。仲の良い友達はいるけれど、いわゆる「リア充」グループとは少し距離がある。夏休みも、きっと去年と同じように、課題と読書と、時々近所の図書館へ行くくらいの、穏やかな毎日を過ごすのだろう。そう思っていた、今日までは。
「ねえ、葵!夏祭り、一緒に行かない?」
声をかけてくれたのは、クラスメイトの田中美咲(たなかみさき)。明るくて社交的な美咲は、クラスの中心人物の一人だ。その隣には、同じグループの山本結衣(やまもとゆい)ちゃんもいて、にこにこと私を見ている。
「え…夏祭り?」
思ってもみなかった誘いに、私は戸惑いを隠せない。夏祭りなんて、小学生の時に親に連れられて行ったきりだ。浴衣を着て、友達と夜店を回るなんて、なんだかすごくキラキラした世界のことのように感じていた。
「そう!隣町の、あの大きいやつ!花火もすごいんだって!葵、行ったことないでしょ?」
「う、うん…」
「じゃあ決まり!一緒に行こうよ!絶対楽しいって!」
美咲の勢いに押されるように、私は曖昧に頷いていた。まさか私が、クラスの陽キャグループと一緒に夏祭りに行くことになるなんて。不安半分、でも、心のどこかで小さな期待が芽生えているのを感じていた。それはきっと、夏の魔法の始まりだったのかもしれない。
夏祭り当日。私は、タンスの奥から引っ張り出してきた母のお下がりの浴衣に袖を通した。白地に淡い水色の朝顔が描かれた、少し大人びたデザイン。慣れない帯に息苦しさを感じながらも、鏡に映るいつもとは違う自分の姿に、少しだけ胸が高鳴る。
駅で美咲たちと合流すると、みんな思い思いの浴衣を着ていて、とても華やかだった。普段の制服姿とは違うみんなの様子に、少し緊張する。
「葵、その浴衣、すごく似合ってるじゃん!」
「そ、そうかな?ありがとう…」
美咲の言葉に、頬が熱くなるのを感じた。
電車を乗り継ぎ、目的地の駅に降り立つと、そこはもうお祭り一色だった。焼きそばの香ばしい匂い、威勢の良い掛け声、そして浴衣や甚平姿の人々の波。なんだか、別の世界に迷い込んだみたいだ。
「すごい人だね!」
「とりあえず、りんご飴食べたくない?」
美咲と結衣ちゃんは、もうすっかりお祭りモードだ。私は人混みに酔いそうになりながらも、二人の後を必死についていく。屋台がずらりと並ぶ参道は、前に進むのもやっとなくらいの混雑ぶりだった。金魚すくい、射的、綿あめ…。きらびやかなネオンと喧騒が、私の心を浮き立たせる。
その時だった。
「あ、あれ、高橋じゃん?」
結衣ちゃんが指差す先にいたのは、同じクラスの高橋湊(たかはしみなと)くんだった。湊くんは、男子の中でも特に目立つ存在だ。サッカー部のエースで、背が高くて、いつも笑顔を絶やさない。私のような地味な生徒にも、分け隔てなく話しかけてくれる優しい人。だけど、まさかこんなところで会うなんて。
湊くんもこちらに気づいたようで、ひらひらと手を振ってきた。彼の隣には、サッカー部の友達が数人いる。
「おー!お前らも来てたのか!」
「うん!高橋くんたちも?」
「おう!夏はやっぱ祭りでしょ!」
快活な湊くんの声が、夏の夜空に響く。私は、なぜか湊くんとまともに目を合わせることができず、俯いてしまう。心臓が、ドクンドクンと速鐘を打っている。
「じゃあ、俺らあっち見てくるわ!また後でな!」
そう言って、湊くんたちは人混みの中に消えていった。
「高橋くん、浴衣じゃないんだねー」
「サッカー部の練習帰りだったりして?」
美咲と結衣ちゃんは楽しそうに話しているけれど、私の頭の中は、さっきの湊くんの笑顔でいっぱいだった。制服のシャツをラフに着崩し、少し汗ばんだ首筋が妙に色っぽくて、ドキドキしてしまったのだ。
その後も、私たちはいくつかの屋台を巡った。たこ焼きを頬張り、型抜きに夢中になり、初めて体験する夏祭りは、想像以上に楽しかった。けれど、心のどこかで、さっき会った湊くんのことが気になっている自分にも気づいていた。
「ねえ、ちょっと飲み物買ってくるね」
少し人混みから離れたくて、私は二人から離れて自動販売機を探した。お茶を買おうとしたけれど、なぜかふと、冷たい炭酸飲料が飲みたくなった。そして、目に入ったのが「瓶ラムネ」の文字。昔ながらのガラス瓶に入ったラムネなんて、いつぶりに見るだろう。ビー玉を押し込む時の、あの独特の感触と音を思い出す。
ごくん、とラムネを一口飲む。シュワシュワとした炭酸が喉を刺激し、甘酸っぱい味が口の中に広がった。どこか懐かしいその味は、私の緊張を少しだけ解きほぐしてくれた気がした。
その時、背後から声をかけられた。
「あれ?佐藤さん?」
振り返ると、そこにいたのは湊くんだった。さっきとは違い、一人でいるようだ。
「た、高橋くん…」
「友達とはぐれちゃったの?」
「ううん、ちょっと飲み物を買いに…高橋くんは?」
「俺も、なんか人多すぎてさ。ちょっと休憩」
そう言って笑う湊くんの顔は、教室で見るよりもずっとくだけた表情に見えた。私たちは、なんとなく並んで、神社の境内へと続く石段に腰を下ろした。手には、飲みかけの瓶ラムネ。
「佐藤さん、ラムネ好きなの?」
「う、うん。久しぶりに飲んだけど、美味しいね」
「俺も好きだよ。なんか、夏って感じするじゃん?」
湊くんはそう言って、私の持っているラムネの瓶を指差した。
「そのビー玉、取れたりするのかな?」
「え?どうだろう…やったことないけど」
そんな他愛もない会話を交わすうちに、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。湊くんは、私が思っていたよりもずっと話しやすい人だった。学校のこと、部活のこと、好きな音楽のこと。普段、教室ではなかなかできないような話を、私たちはたくさんした。
「佐藤さんって、静かだけど、ちゃんと自分の考え持ってるんだな」
「そ、そんなことないよ…」
「いや、俺はそう思うよ。もっと早く、ちゃんと話してみればよかったな」
湊くんの言葉に、胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚える。それは、痛いような、でも温かいような、不思議な感覚だった。
ふと、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。そして、夜空に大きな光の華が咲いた。
「あ、花火だ!」
湊くんの声に促されるように空を見上げると、次から次へと色とりどりの花火が打ち上がり、夜空を鮮やかに染め上げていく。ドーン、という重低音が身体の芯に響き、パチパチと火花が散る音が耳に心地よい。
私たちは、言葉を忘れたように、ただ黙って空を見上げていた。すぐ隣に湊くんがいる。浴衣越しに伝わる、彼の体温。ラムネの瓶を持つ手が、少しだけ汗ばんでいるのを感じる。
大きな花火がひときゅう大きく輝き、そして静かに消えていく。その儚い美しさに、なんだか泣きそうになる。これが、青春っていうものなのかな。
「…きれいだね」
ぽつりと、私が呟いた。
「うん。…でも、」
湊くんが、何かを言いかけた。私は、彼の次の言葉を待つ。夜空に咲く花火の光が、彼の真剣な横顔を照らし出している。
「…でも、佐藤さんと一緒に見れて、もっときれいに見える気がする」
え?
私は、自分の耳を疑った。湊くんは、照れくさそうに笑いながら、私の方を見ていた。その瞬間、私の心臓は、今までにないくらい大きな音を立てて跳ね上がった。顔が、カッと熱くなるのがわかる。
「わ、私も…高橋くんと見れて、嬉しい…です」
しどろもどろになりながら、なんとかそれだけを伝えるのが精一杯だった。湊くんは、それを聞いて、ふっと優しい笑顔を見せてくれた。その笑顔は、どんな花火よりも眩しくて、私の胸を焦がした。
花火が終わり、私たちは再び賑わいの中へと戻った。美咲たちとも無事に合流できたけれど、私の心はまだ、さっきの湊くんの言葉でいっぱいだった。
夏祭りの帰り道。駅までの道を、私たちは並んで歩いた。さっきまでの喧騒が嘘のように、周囲は静まり返っている。カランコロンと下駄の音が、夏の夜道に響く。
「今日は、ありがとう」
駅の改札前で、湊くんが言った。
「誘ってくれて、嬉しかった。初めての夏祭り、すごく楽しかったよ」
「う、うん…私も、高橋くんがいてくれて…楽しかった」
本当は、もっと伝えたいことがたくさんあった。でも、言葉がうまく出てこない。
「じゃあ、また学校で」
「うん、またね」
湊くんは、少し名残惜しそうに手を振って、改札の向こうへと消えていった。私は、その場にしばらく立ち尽くしていた。手の中に残る、空になったラムネの瓶の冷たさだけが、さっきまでの出来事が夢ではなかったことを教えてくれているようだった。
夏休みが明け、二学期が始まった。私の日常は、基本的には何も変わっていない。相変わらず、教室の隅で静かに本を読んでいることが多いし、グループの中心で騒ぐようなタイプでもない。
でも、確実に何かが変わった。
廊下で湊くんとすれ違う時、目が合うと、彼は少し照れたように笑いかけてくれるようになった。私も、以前よりは自然に挨拶を返せるようになった気がする。体育の授業で、偶然同じチームになった時は、ぎこちないながらもパスを交換したりした。
あの夏祭りの夜の出来事は、まるで夢のようだったけれど、確かに私たちの間に何かを残していった。それは、甘酸っぱくて、少しだけ苦くて、でもキラキラとした、ラムネの泡のような思い出。
まだ、私たちの関係に名前はない。これからどうなるのかもわからない。でも、あの夏の日、湊くんと二人で見た花火の美しさと、彼がくれた言葉は、きっとずっと忘れないだろう。
窓の外では、夏の名残の太陽が、まだ少しだけ強い光を投げかけている。私の頬を撫でる風は、もう秋の気配を孕んでいるけれど、心の中には、あの夏の夜の熱気が、まだ確かに残っている。
そして、ふと思うのだ。次の夏祭りは、また湊くんと一緒に行けるだろうか、と。そんな淡い期待を胸に抱きながら、私は新しい学期のページをめくるのだった。
これは、私の、初めての夏。そして、初めての、ラムネ色の約束。
ラムネ色の約束 龍月みぃ @ryuugetumii
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