■第二話 気まずさの教室

 1時間目は国語。

 園崎ゆりえが担当する授業だった。


 黒板には「叙述と描写の違いについて」と書かれている。

 ノートにまとめる手が教室のあちこちで動く。

 空調の音、チョークが走る音、ページをめくる音――


 静かで、落ち着いた時間。


 ……なのに、息苦しい。


「じゃあここ、“春の海のきらめきが目に浮かぶような描写”になってますね。

 この“きらめき”っていう単語から、情景が思い浮かぶように――」


 ゆりえは教壇に立ちながら、黒板の端にチョークを走らせている。


 一見、いつも通りの授業風景。

 でも本人は、意識の7割が“もも”の席に向いていた。


(ちゃんとノート取ってる……偉い……やっぱり偉い……)


(でも、なんでこんなに静かなの……昨日のこと、やっぱり……)


 ゆりえは、教壇の上からちらりとその席を見る。


 ももは、うつむきながらノートに書き込んでいた。


 少しだけ、眉が下がっていて、頬のあたりがほんのり赤い。

 細い指が、震えるようにシャープペンを握っている。


(あれは……照れてるの? それとも……嫌がってる……?)


(いやでも、口にキスして気絶させた時点で、嫌われても当然……うん、死)


 ゆりえ、教壇の裏で見えないところでチョークを握りしめる。


 その一方で――ももも、必死だった。


(先生、普通に授業してる……でも、視線を感じる……)


(気のせい? いや、何回か……目が合った……)


(あのとき……キス、されたとき……)


 心臓が、ずっとトクトク鳴っていた。


(先生は、あれを“演出”でやってくれただけ……)


(でも、私……あのあと、寝たふりした……起きてたのに……)


(“ももって、可愛いでしょ”って聞こえた……)


(先生、どう思ったんだろ……)


 ももは目を伏せながら、ノートのページに“きらきら”と小さく書いてしまっていた。

 慌てて消す。

 でも、消しゴムを動かす手が、震えている。


(やっぱり、バレたらだめだ……)


(私が、先生のこと“特別に好き”だなんて、知られたら……)


 ふたりは一言も交わしていない。

 けれど、授業という名の沈黙の中で、

 お互いの心臓の音だけが、どこかで繋がっているようだった。


 ──チャイムが鳴った。


 昼休み。

 でも、すぐに誰も立ち上がらない。


 クラスの空気が、ちょっとだけ慎重だった。


 ゆりえは、教科書を閉じて、やわらかく言った。


「はい、お疲れさまでした。

 篠原さん……ノート、すごくきれいに取れてて、助かります」


 その言葉に、ももはビクリと肩を揺らした。

 顔を伏せたまま、唇が小さく震える。


「……ありがとうございます」


 蚊の鳴くような声。

 けれど、それは確かに、ちゃんと届いた。


 ゆりえの胸が、少しだけ、あたたかくなった。


(まだ……終わってない……ちゃんと、届いてる)


 だけど、まだ踏み込めない。

 まだ、“先生”として、見守ることしかできない。


 ふたりの心は、ほんの少しだけ――近づいた。


 でも、あと一歩の距離は、まだ、とても遠かった。

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